Books | 100年かけてやる仕事:中世ラテン語の辞書を編む | 大河内文恵
小倉孝保 著
プレジデント社
2019年3月出版
1800円(税別)
text by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)
この頃行く機会がめっきり減ったリアル書店で、語学書コーナーをぶらぶらしていたら、タイトルに目が留まった。パラパラとめくると、新聞記者である小倉氏が、英国で中世ラテン語の辞書がつくられた経緯を、関係者へのインタビューから構成しているということがわかり、これなら2時間くらいでさらっと読めるかもと衝動買いした。
ラテン語というと、現代の日本で暮らす私たちにはあまり馴染みがないかもしれないが、たとえばミサ曲の歌詞はラテン語だし、小倉氏も紹介しているように、「巨人対阪神」といった場合に使う「vs」はラテン語の前置詞「versus」に由来していたり、「午前」「午後」をあらわす「am」「pm」もラテン語の「正午前ante meridiem」「正午後post meridiem」から来ているなど、知らず知らずのうちにラテン語を使っている。
この本が対象としているのは、いわゆる「古典ラテン語」ではなく「中世ラテン語」である。5世紀に西ローマ帝国が滅亡してからも、ラテン語はヨーロッパ各地で教会や役所、研究の世界などで使い続けられたが、各々の地域の文化や言語の影響を受けて変容していった。とくに英国では、独自の変化を遂げたため、中世ラテン語を正確に読むことができなければ、自国の歴史をただしく理解することができない。そのための辞書をつくるというプロジェクトが始まったのは、第1次世界大戦が始まる前年の1913年であった。
2013年には映画化もされた『舟を編む』(三浦しをん著)という本がある。そこでは、とある架空の出版社の辞書編集部に引き抜かれた若者が先輩編集者や同僚との交流の中で次第にのめり込んでいく様子が描かれている。この映画を見た記憶があったので、日本の辞書で12年(原作では13年)かかったところを、英国では100年かかったというだけの話でしょと、最初は安易に考えていた。
2時間くらいでさらっとどころか、もっと深淵で広大な世界が広がっていることに気づいたのは、半分ほど読み進めたころだろうか。その時点ですでに数日が経過していた。とはいっても、さすが新聞記者だけあって、文章は読みやすく、するする読める。
この辞書プロジェクトは1913年に始まるが、言葉を集める「ワードハンター」はボランティアによってなされていた。過去の文書から言葉を集めるだけとはいえ、普段使っている英語ではなくラテン語である。まずラテン語が読めなければ、ボランティアは務まらない。日本でいえば、漢字辞典を作るために漢文がすらすら読める人に「ワードハンター」をやってもらうということに相当する。中学高校で漢文を習ったくらいで太刀打ちできる仕事ではないくらいのことは筆者でもわかる。戦前ならともかく、現代の日本でこのボランティアをでやれる人がどのくらいいるだろうかと思ったら、気が遠くなった。
1913年4月7日にタイムズ紙に掲載された呼びかけ文が残っている。「今こそオックスフォード、ケンブリッジ、(中略)などの各大学は、学生たちに装備を提供しようではないか。学生というのは、歴史や文学の形成過程を学ぶのに最良の時期であり、彼らは人類の思想を習得するための難題を解決する資格を持っている。(中略)各地の協力者が文献を集め、ボランティアたちが言語を採取する。(中略)今回のプロジェクトは英国学士院会員の多くに支持されている。今こそ、議会がこのプロジェクトを実行に移すことを期待している」。
こちらの胸まであつくなってしまう文章だが、ここでポイントとなるのは、この辞書は英国の権威を示すためではなく、学生のために作られたものであるということと、英国学士院会員の支持を得ているということである。日本では、辞書編纂は個人もしくは出版社が私的におこなうもので、国が作った辞書は一冊もない(ということを今回初めて知った)。
もちろん、英国の中世ラテン語辞書は編纂に時間がかかりすぎ、英国学士院から早く出すよう迫られたりしたのだが、いくらボランティアがワードハンターを務めるとはいえ、編集者は専従者なので給料を支払わなくてはならない。それは学士院から、つまり国民の税金から賄われていたのだ。
では、実際に携わった人々は何故この仕事をしたのだろうか?英国の人々の話はこの本を読んでいただくこととして、ここでは日本の話を紹介しよう。岩波書店で長く辞書編集にかかわった平木(「舟を編む」のモデルとも言われている)は、「一見無駄なもの、価値が薄いと思われるようなことに力を注ぐことこそ文明の力」としている。また、「ほぼ日の学校」の学校長をつとめる河野は「死者の思いを届けたいと考えた人がいるんでしょう」と推測する一方、ロシア文学を学んだ経験から、ロシア語によって消えていった少数民族の言葉について「言葉が消えていくということは、生きた証が消えること、記憶が消えることです」と語っている。
さらに続けよう。米国出身の詩人ビナードの「経済的利益よりはるかに大事な宝物があることに気付くと、利益が出ないことでも人は動きます」という言葉は、平木の意見に通じるものがある。小倉氏はこれを受けて「アルファベットにしても、漢字にしても経済的利益を目的につくられたわけではない」とパラフレーズする。
ビナードはアイヌ語が滅びると絶滅のドミノ倒しによって、土台を失った日本語は脆弱になると危機感をもっている。英国人が中世ラテン語を守ったのはそのためだったのかと、ここでようやく腑に落ちた。と同時に、日本語の危機に立ち向かっているのが日本人ではなく、一人の米国出身者であることに衝撃を受けた。
この本の中では、英国の中世ラテン語辞書編集にかかわった人々の言葉がたくさん紹介されているが、それはどこか遠くの国の遠い世界のことだと思っていなかったか。英国はすごいことをしたけれど、日本にそんなことはないし、と楽観視していなかったか。
遠い国の話のようでいて、今目の前にあるのはまさに私たち自身の問題である。最初に想像していたのとはまったく違う方向に来てしまったけれど、これこそが本との出会いの醍醐味。たまにはまた、リアル本屋をぶらついてみよう。
(2019/4/15)