カデンツァ|手引きのある、なし〜フェルメールと柳宗悦|丘山万里子

手引きのある、なし〜フェルメールと柳宗悦

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

1月半ばに上野の『フェルメール展』(大阪は2/16~5/12まで)に出かけた。光の魔術師と言われるが、2008年の時はその鮮やかな「赤」に目を奪われた。今回は日本美術史上最大とのことで、35点といわれる現存作品のうち、9点が揃う。あらかじめ入場時間が決められているものの混雑は予想されたので、夕方なら、と思ったが、それでも入り口には列ができていた。
私は一通りささっと見て、そのあと、気にいったものに戻ってもう一度じっくり見るタイプ。と、展示室に入ったのだが、何と、そこでもうひとが溜まって動かない。どうしたことかと背伸びすると、みなさん無料音声ガイド(女優の石原さとみがナビ)に列をなしているのだ。そうして、ガイドを聞きながらいちいち絵の前に立ち止まって見入るわけで、渋滞はそのために生じているのだった。
ガイド不要派のための脇道があったので、私は通り抜けてどんどん進んだ。案の定、後半の部屋は空いていて、十分楽しめた。引き返してくる頃には、渋滞集団はいなくなっており、これまたじっくり見ることができた。やっぱり、フェルメールは赤だな、などと思いつつ。
『ワイングラス』の着衣の色鮮やかな赤、『真珠の首飾りの女』の髪飾りの赤。綺麗だ。
そうそう、青も素敵。とりわけ『手紙を書く女』の着衣のイエローとブルーが印象的。
レンブラントの「光」とどう違うか? 印象派の「色」とどう違うか?
なんてことより、例えばこの女(ひと)の手紙、誰に、何を、とつい想像し、彼女及び画家と語らい始めるのが私の「じっくり」。

それにしても、だ。
昨今は音声ガイドが大流行りで、みんな熱心にイヤホンに聞き入る。展示室に掲げられた解説文もしっかり読む。
すごくお勉強家だ。ガイド、解説のあるなしは、鑑賞・理解の手引きとなるには違いないが、そんなに先回りして教えてくれずとも、私は私で楽しみたいの、好きにさせてよね、と思ってもしまう。
音楽もそうで、とりわけ現代作品は作曲家の言葉を手がかりに「なるほど、そういうコンセプトなのね」と頷いたりするわけだが、これもいかがなものだろう。

など、思う矢先、『説明控えめ 寡黙な美術展示』という見出しの新聞記事が目に止まった(朝日新聞1/18朝刊)。「先入観なくじっくり見て」の記事には「自分の目で見て考える方が、作品の真理にたどり着けることがあります」という意見と「美術展を見たけど分からなかった、という不幸な体験にならないように」との意見が並ぶ。
どちらにせよ、自分で選べばいいだけの話だ、と思うが、「見たけどわからん」「聴いたけどわからん」を「不幸な体験」とするのはいかがなものか。

など、思う矢先、知人の松井健氏から日本民藝館での講演の案内が届いた。
民藝館での『柳宗悦の「直感」〜美を見いだす力』(1/11〜3/24)の一環で、展示には「説明や解説を省き、時代や産地、分野を問わず、柳が蒐めた名品を中心にして一堂に展観」とある。なんと素敵なタイミング、と、いそいそ出かけた。
ロビーや1F、2F展示室に並ぶ名品は、なるほどなんの説明もない。それだけがドカン、もしくはバラバラと置かれており、「あなたの眼で観てね」である。
柳は日常生活の中で使われる雑器・工芸の中にこそ「美」がある、と主張した。陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎ら4名による民藝運動(1925~)の主唱者で、手仕事の日用品に「用の美」を見出し、そのコレクションが日本民藝館(1936)に展示されている。
私は日本の現代音楽を考えるに東洋思想の素養は大事と思い、あれこれ雑多に手にしてきて、柳の著作も眺めたことはあったが、どうもピンとこず放ってしまった。
民藝運動は名もなき職人の日常物の美を愛でるものゆえ、作家性は否定される。そこに武満らが口にした無名性や、鈴木大拙に示唆を受けたケージの偶然性とつながるものがあるのかどうか、など考えてもみたが、結局うやむやに終わったのはその主張が宗教性を帯びるからだ。「無」だの「空」だの「美の宗教」だのと「美の法門」を説かれてもなあ、と。

ともかく私は講演など聞く前に、先入観なく私の眼で、と展示室を巡った。居並ぶ名品をひとわたり眺めたのだが、おお、これはなんだかいいなあ、と思ったのは2点。
ピンクがかった褐色の素焼きみたいな結構大きな壺のようなものが一つ。中を覗いたら底がなかった。上部の縁もギザギザで割れた風であったから、破損したものであろう。けど、肌がいかにも柔らかく発色も美しく、私は大いに気に入って、その前の床に座り込んでしげしげと眺め続けたのである。
もう一つはロビーに飾られた大皿。濃茶の艶やかな円形に金色で波線が大胆に上下左右を横切っている。ダイナミックでリズミックでインパクト大。構えが大きく勢いがいい。これは河井寛次郎ぽいな、なんて(先入観なし、など言ってもひとにはそれぞれの記憶史がある。ちなみにこの2点、チラシ裏に掲載されているのを後で見つけた)。
有名な木喰もあったが、私は好まない。沖縄の紅型染めや織物あれこれ、グレゴリオ聖歌のネウマ譜なんてのもあり、へえ、と思ったが、特段の印象もなく素通り。

さて講演だが。
『直感について』という柳の晩年のエッセイが配られ、彼の主張する直感とはなんぞや、が語られた。
柳曰く、美しさへの理解にはどうしても直感が必要で、知識だけでは美しさの中核に触れ得ない。直感とは観る者と観られるものとの別が消え去る働き。これを「即覚」と呼んでも良い。「即」とは「即刻」であり「相即」である。心を空しくして観る、空手、素手で受け取る、立場なき立場。「そのままの相」「あるがままに観る」と、これはお釈迦様が悟りを得たとき「あるがままに世界を観る」と言ったそれに通ずるのであるが(だから柳は仏教的立場をとる)、以前、私が躓いたのもこのあたりで、この種の仏教の教えを実感を持って受け止めるに必要な何かが私には決定的に欠けているのである。
その後、原始仏教から大乗仏教まで、主だった経典を通読してなお、「そうなのか!」という理解には至らない。
柳の言葉に、美を見出すに知識は無用、我は無用(滅却)、ただあるがままに向き合え、すれば美は自ずから開くのだな、と合点はする。
が、桃褐色の壺に吸い寄せられた我が心の動きを点検しても、確かに空手で観たが、それを見出したのは「私」という「我」以外の何ものでもないでしょう、と、「近代的自意識」にしっかり毒されている私は思うわけだ。無心って、どんな心持ちなんだろう。それは、突然、降りてくる、あるいはぱっとひらける圧倒的な何か、らしい。

知識を手がかりにしようが、直感を信じようが、どっちでも構わぬ。
ガイド・解説は「作品の真理」への一つの導き手で、後をついて行けば相応の地点へ辿り着けるに違いない。だが、道なき道をひとり迷い彷徨えば、誰も見つけぬ花々にも出会おう。それは十分幸福な体験だ。「作品の真理」は、そんなにケチなものでなく、豊かに、そこらじゅうに散らばっているんじゃないか。

先だっての引退記者会見でイチローは言った。「はかりは自分の中にある。自分なりに秤を使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていくということを繰り返していく。」
至言だ。
思うに、知識にせよ、直感にせよ、片方が重くなりすぎては耳目(心身)はうまく働かず、自分の中で微妙なあんばいをしながら向き合う。私のような凡人は、そんな感じかなあ、とふと思ったことであった。
それにしても、音楽は難しい。絵画や文学その他は「戻り」がきくが、音楽は巻き戻せない。こう聴きなさい、という手引きがあれば前もって意識をそう仕向け、一定の理解は得られよう。だが、流れ去って行くものの残像と語らうのは、至難だ。

 (2019/4/15)