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音楽にかまけている|ラトルのラッヘンマン|長木誠司

ラトルのラッヘンマン

text by 長木誠司(Seiji Choki)

3月20日にベルリンに来た。その翌日、さっそくフィルハーモニーにベルリン・フィルをのぞいてみると、芸術監督を降板したサイモン・ラトルがふたたび指揮をしている。かつてのカラヤンのように終身常任指揮者ではなく、前任者クラウディオ・アバド同様「生前退位」となったラトルなので、もちろんこのオーケストラをいまもって振ることになんの疑問もないのだが、今秋始まる来シーズンから正式に芸術監督に就任するキリル・ペトレンコとオーケストラとの仲に早くも不穏な噂が飛び交うなか、久々のラトル登場に会場が大いに沸いているのは、どこか異様な光景だ。

Sir Simon Rattle
(Foto: Monika Rittershaus)

というのも、3日間行われた演奏会のプログラムは、ラトルとしてはかなり思いきったもので、ヘルムート・ラッヘンマンの昨年の新作《マイ・メロディーズ My Melodies》とシューマンの交響曲のなかでもいちばん地味な第2番なのである。そうそう興奮するようなものではない。
もちろん、ラトルは在任中にベルリン・フィルが経験したことのなかったような現代作品をたくさんプログラムに採り入れた。それが退任のひとつの遠因になったことは否定できないだろう。ベルリン・フィルはなんでも非常に「うまく」演奏してしまうし、いかなる特殊奏法も難なくこなしてしまうので、現代作品がこようがなにがこようがへいちゃらなはずだが、さすがに聴衆の方はそうも言っていられない。ラトル支持派が多い一方で――若い聴き手やトルコ系の聴衆を開拓した意義は大きい――古参があまり乗り気がしなくなったのは仕方ないところかも知れない。
もっとも、この傾向はアバド時代から続いていたわけで、ベルリン・フィルは、あくまでも伝統にしがみつくウィーン・フィルとはここ30年ほど完全に袂を分かって、現代のオーケストラになっている。機動性もカラヤン時代とはまた異なった、モダンなものへと塗り替えられた。
アバドの採り上げた、いわゆる「現代曲」が、ノーノとかクルタークとか W.リームとか、それこそ大陸系の「前衛」に集中して「正統性」の矜恃を見せつけていたのに対し、ラトル時代にはもっと柔軟に、ラトルの本来の土壌でもあるアングロサクソン系の現代作品、現代音楽史の余白のような作品が多くプログラムに上っていた。前衛の代表シュトックハウゼンの《グルッペン》はバーミンガム時代からのレパートリーだから演奏したが(もちろんアバドも採り上げていた)、それ以外の大陸系前衛はちょっと希薄だったように思う。いわゆるしんねりむっつりの前衛より、明るく機敏な実験的、あるいは新ロマン的、ポストモダン的作品をむしろ採り上げるのが、ラトル時代の特徴だったろう。それはそれでアバド時代とは差別化する、バランスの取れた時代であったと思う(ペトレンコ時代はどうなるのだろう?)

それから考えると、今回のラッヘンマンの演奏は非常に特殊である。ラッヘンマン作品はラトル時代にまったく採り上げなかったわけではないが(《タブロー》の例があった)、昨年6月にミュンヒェンで初演されたばかりの作品(ペーター・エトヴェシュ指揮バイエルン放送交響楽団)を、すでに手の離れたオーケストラへの「客演」で演奏するというのは、やはり冒険なのではないだろうか。そもそも、ラッヘンマン作品は、特殊奏法ひとつ取っても、ただ記譜されているとおりにへんてこに弾きます・吹きますというわけではなく、作曲者の頭のなかにはかなり具体的な音のイメージがあって、書いてあるとおりにやればよいということではすまされない。今回もラッヘンマン自身がやってきて、練習中に奏法のレクチャーをしているから、楽員にとっては時間と手間のかかる面倒な作品には違いあるまい。
それにこの《マイ・メロディーズ》(サンリオのキャラクター名を想い出させて、日本人にはちょっと失笑を買いそう)、4巻編成という巨大なものではあるものの、普通のオーケストラでは演奏できない。2台のエレキギターが入っていたし、ピアノは左右に2台、それにホルンの「ソロ」がなんと8名も必要だ。オーケストラ前面に指揮台を取り囲むように座ったホルン奏者は、左端トップに女性のサラ・ウィリス、右端にシュテファン・ドール、5名まではベルリン・フィルのメンバーで、残り3名はエキストラである。もっとも、ラトルがシューマンとの併演を行ったのには、彼なりの脈絡作りがあったろう。シューマンに4本のソロのための作品があることはよく知られているし、ラトル時代にはその《4本のホルンとオーケストラのためのコンツェルトシュテュック》を何度か演奏しているから。

ラッヘンマンといえば特殊奏法という固定観念を、一昨年この作曲家は完膚なきまでに打ち砕いていた。ピアノ独奏のためにまず書かれ、しかる後にオーケストラ版が書かれた《マルシュ・ファタール》がそれである。日本では2017年6月に水戸芸術館でピアノ版が初演されていたが、その後のヨーロッパでのオーケストラ版演奏を含めて、そのあまりにバナールな音楽は、これまでのラッヘンマンの聴き手を戸惑わせた。とにかく、ほとんど軍隊行進曲のパロディーのような変ホ長調の作品で、いよいよラッヘンマンにも、いわゆる最悪の意味で「ポストモダン的」なこういう曲を書く時代がやって来たかという驚きと落胆が、束の間の現代音楽界を賑わわせた。ノイエ・ムジーク・ツァイントゥング(nmz)のブログには、一時“ラッヘンマン、お前もか”とばかりに「ヘルムートに許されるのなら君も」という文章が皮肉交じりにアップされていた(写真)。
もっとも、ラッヘンマンにとってこれは想定内の反応であり、彼にとって演奏会場が挑戦と挑発の場であることには変わりなかった。考えてみれば、上記のような反応が出ることこそ、いかにもラッヘンマンらしい(そもそも行進曲は行進するためのもので、聴くものではない。それをまさに「聴かせる」ことがラッヘンマンの狙いでもあった)。
その意味では、今回の《マイ・メロディーズ》では、いわばもとに向き直った「正統」のラッヘンマンがいる。弦の各プルトや木管、金管、打楽器、ピアノ、エレキ等々、オーケストラの個々の奏者にまで行き届いた特殊奏法と微分音にまみれ、脈絡のない多層的な音楽が35分あまりの変化に富んだ長きにわたって延々と続けられる。その間、けっして音楽が緩慢になることはない。音色のバランスと、脈絡はないが展開の妙が細部すべてに行き届いているためだ。
ただ、これが以前の作品の繰り返しでないのは、まさにホルン8本という設定にあるだろう。考えてみれば、ホルンの数がこれくらい多いのはソロでさえなければ当たり前で(R.シュトラウス、マーラー、ホルスト、シェーンベルク等々)、シューマンなどの先例を思えば、それがソロでも特に新しい編成というわけではない。むしろ、この「古典的」とも言える編成のなかで、いかに新しい音を書くかではなく、いかに新しい聴き方を産み出すのかがラッヘンマンの狙いだろう。それはみごとに成功していたと思う。
ラトルの腕振りの音まで聞こえてきそうな、水を打ったような会場のなか、固唾を呑んで聴く聴衆の集中力が凄まじかった。そして次のシューマンでは、心底安堵して聴いている同じ聴衆の姿も認められた。退任してなお、あるいは退任したからこそ、むしろ自由に冒険できるようになったラトルの姿がそこにあった。

 (2019/4/15)

https://www.berliner-philharmoniker.de/konzerte/kalender/details/51856/
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長木誠司(Seiji Choki)
1958年福岡県出身。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。音楽学者・音楽評論家。オペラおよび現代の日本と西洋の音楽を多方面より研究。東京大学文学部、東京藝術大学大学院博士課程修了。著書に『前衛音楽の漂流者たち もうひとつの音楽的近代』、『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社)、『オペラの20世紀 夢のまた夢へ』(平凡社)。共著に『日本戦後音楽史 上・下』(平凡社)など。