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パトリツィア・コパチンスカヤ ポリーナ・レシェンコ|平岡拓也

パトリツィア・コパチンスカヤ ポリーナ・レシェンコ

2019年1月14日 トッパンホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ヴァイオリン:パトリツィア・コパチンスカヤ
ピアノ:ポリーナ・レシェンコ

<曲目>
プーランク:ヴァイオリン・ソナタ
C. シューマン:ピアノとヴァイオリンのための3つのロマンス Op.22より
   第1曲 Andante molto
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第2番 Sz76

エネスク:ヴァイオリン・ソナタ第3番 イ短調 Op. 25「ルーマニア民俗風」
ラヴェル:ツィガーヌ
~アンコール~
カンチェリ:Rag-Gidon-Time

 

パトリツィア・コパチンスカヤという音楽家、あるいは彼女の音楽を形容する時、しばしば「異端」「斬新」という言葉が用いられる。それは、ヴァイオリン演奏を飛び出し、歌い、ピアノを弾き、指揮をする幅の広さに対してだろうか。あるいは彼女の演奏スタイルが纏う小動物的な敏捷性か。はたまた、(本項が公開されている頃には共に来日している)指揮者クルレンツィスと組んだチャイコフスキーの協奏曲CDジャケットに顕れたような、独特の美的センスゆえか。

今回の実演において筆者は、大変知的に磨き抜かれ、卓越した音楽家の姿をみた。一般に「異端」「斬新」と見られている派手派手しいパフォーマンスは、彼女の魅力の一部であろう、と。まず、この考え抜かれたプログラムである。師弟関係や時代背景、さらには自らの音楽的ルーツとも共鳴する4曲―直前でC. シューマンも加わり5曲となったが―が鎖を形成。それぞれの曲が乱反射的にスポットを当て合うのである。

ステージに登場したコパチンスカヤは上半身を黒、下半身を白のドレスに身を包み、ピアニストのレシェンコは白ジャケットに黒パンツ。この色とスタイルの対照から、変化に富んだ一夜が既に始まっている―と捉えるのは大袈裟か。
椅子に座りプーランクを弾き始めた彼女は裸足であり、時折足を踏み鳴らしながら弾く。その姿は弾くと言うより、ほとんど楽器を通じた「喋り」に近い。何か本能的な鋭い嗅覚がボウイングや発音、音色の選択に宿り、客席へ伝わる。しかしながら運弓に乱れが生じることはないのは、あらゆる表現が彼女の最深部において統制されている証拠であろう。
プーランクの演奏では、第2楽章などに聴かれる洒脱さよりも暴力性が前に出た。ファシズムの犠牲となった詩人ガルシア・ロルカに捧げられたという楽曲成立の背景が否応なく印象付けられた結果である。一方でバルトークは両楽章ともに彼女の表現と抜群の親和性を持っており、その語りに一層の自信、いや誇りのようなものさえ宿っていた。

後半、コパチンスカヤは立って演奏した(その相違が音楽の運動性にいかほどの影響を与えたかは、正直わからない)。『ルーマニア民俗風』の標題通り、ロマとルーマニアの音楽が入り交ざった強烈なエネスクのソナタは、目まぐるしく現れる膨大な語彙、音色によって演じ分けられ、生理的にウエッと来る寸前の殺伐とした音(第2楽章に顕著だった)まで駆使される。攻めていない場面はない。その中で、随所に現れる個性豊かな五度の音程も際立つ。レシェンコの支えの巧さも大いに貢献した。
今宵を締めくくるラヴェル『ツィガーヌ』。ただでさえ革新的であり、作曲家がそれまでの殻を破ろうと模索した末に生まれた楽曲が、2人の演奏家の手により解体され、再構築されるような趣があった。彼女らの手にかかると、作品を包むオブラートは融け去り、ごつごつとした芯のみが最後に残る。
アンコールのカンチェリ作品(ギドン・クレーメルに献呈されている)では一転、顔の表情や小芝居も交え、リラックスした温かい雰囲気であっさりとライヴを終えた。

プログラム全体を挟むプーランクとラヴェル、内側に置かれたバルトークとエネスク、作品に流れる血潮とコパチンスカヤの表現がより一致したのは後者であったが―前者の作品像を新たにするアプローチも実に興味深かった。ピアノのレシェンコがコパチンスカヤを自在に支えつつ自らの存在もはっきりと打ち出し、見事なデュオの形成に貢献していたことも記さねばなるまい。この曲なら彼女らはどんな演奏を聴かせてくれるだろうか?―そんな連想を掻き立てられる、濃密な聴体験に感謝したい。

(2019/2/15)