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モルゴーア・クァルテット 第47回定期演奏会|藤原聡

モルゴーア・クァルテット 第47回定期演奏会

2019年1月28日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
モルゴーア・クァルテット
第1ヴァイオリン:荒井英治
第2ヴァイオリン:戸澤哲夫
ヴィオラ:小野富士
チェロ:藤森亮一

<曲目>
ツェムリンスキー:弦楽四重奏の為の2つの楽章(1927)
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 D804『ロザムンデ』
ヴォルフ:弦楽四重奏曲 ニ短調(1879-1884)
(アンコール)
マーラー:『さすらう若人の歌』~「朝の野を歩けば」

 

「ウィーンへの旅」と荒井英治氏が当夜のプログラムについて述べるように、この日の3人の作曲家はウィーンという特異な街と切っても切れない関係にある。ウィーンに生れてウィーンに没したシューベルト。プラハやベルリンへ趣き、はたまた晩年にはアメリカ亡命を果たしたもののその前半生は完全にウィーンに根ざしたものだったツェムリンスキー。両親はスロヴェニア人であったが、幼少~青年時代をウィーンで過ごしかの地でワーグナーやブラームスと邂逅したヴォルフ(ブラームスの音楽を蛇蝎のごとく嫌っていたが)。

この3人の音楽には表面的には現世的快楽を思わせる陽気さ、快活さという要素が見い出せる反面(ワルツやレントラーに顕著だろう)、それと相反するようないかにも不安な精神的深淵を垣間見せる瞬間もまた多数存在するが、それはウィーンという街の二面性/二重性と符合するとも言えるのではないか。この辺りの話題はウィーンの先進性と保守性の相克やらオーストリア=ハンガリー二重帝国、フロイトの無意識などと結び付けてあれこれ論じられようが、それは本稿の目指すところではない(余談ついでだが、哲学者の中島義道はウィーンという難儀な街の二面性、両義性について愛憎相半ばにしばしば言及している)。

前置きはその位にして。

最初にはツェムリンスキーの弦楽四重奏のための2つの楽章が演奏されたが、これは自意識が結果として外へ外へと向かうマーラーの外向性とは正反対の極めて内面的な音楽であり、マーラー同様の爛熟を見せながらもそれはより屈折している。曲がりくねって晦渋な旋律と和声にまとわりつくどうしようもないメランコリーに覆われながらも、時折妙に明るい舞踊が現れたりする。これを聴いて何だかアルバン・ベルクの音楽を思い出してしまったが、ベルクの音楽も例えばヴァイオリン協奏曲や管弦楽のための3つの小品で不意にワルツが登場して来る辺りがもう逃れようもなくウィーンなのだった。

モルゴーアの演奏は言葉の最善の意味で「過不足ない」もの。いかにも清潔で見通しが良いが、ここまで徹頭徹尾ウィーン的な音楽を日本人が模範的に演奏すればこうなるだろう、というもの(否定的な意味では断じてない)。それでいて曲の異常性ははっきりと伝わる。とは言えかつてのコンツェルトハウスSQやらアルバン・ベルクSQならどう演奏したのだろうか。

次はいつものモルゴーアらしくなく王道的名曲である『ロザムンデ』だが、これがツェムリンスキーの後に置かれるとまた感じ方が異なってくる。シューベルトのリート『さすらい人』D493の歌詞「幸福はお前のいないところにある」はシューベルト及びロマン派の本質を端的に表していると思うが、これがツェムリンスキー及びベルクにあっては現実逃避としてのワルツで表される(一見愉しいヨハン・シュトラウスのワルツたちもその裏には幻滅と欲望が渦巻いているのだ)。

『ロザムンデ』では第1及び第3楽章のメランコリーは言うに及ばず、むしろいかにも快活なハンガリー風の終楽章にこそどことなく無理をした明るさ、と言うか寂しさがまとわりついてはいまいか。先にも記したように、ツェムリンスキーとヴォルフに挟まれた『ロザムンデ』という配列でいつもにも増してシューベルトの二面性が露に聴こえる。演奏は端正で完成度が高い。ヨーロッパの団体がしばしば聴かせるようなリズム的な遊びや妙味、コケットリーには乏しいが見事なもの。ここでは藤森のチェロが全体を引き締めていたように思う。

休憩を挟んでのヴォルフだが、これは滅多に実演で演奏されない曲だ。この作曲家がリートという分野において爆発的な創造力を発揮し次々に傑作を生み出し始めたのが1888年(それは1890年まで続く)。弦楽四重奏曲はそれより前、ウィーン音楽院を退学直後の1879年~1884年に渡っての作品でこの時ヴォルフの名前はそれほど知られていなかった。

筆者はこの曲をラサールSQの録音で聴いたことがあるが(しかしラサールがよくこれを録音しようなどと考えたものだ)、ラサールの力をもってしてもとにかく様式がとっちらかって聴き手として焦点が絞りにくい(荒井英治氏曰く「ベートーヴェンやシューベルト、ワーグナーなどがみんな出て来る」。第3楽章冒頭など『ローエングリン』前奏曲そのままだ)。

当日のプログラムによれば本作にはゲーテの『ファウスト』から「困苦に耐え、欠乏を忍べ」との言葉が掲げられているという。ファウスト的な欲望がこの作品の様相に直結している、と書けば一見分かりやすくもあるが、事実ここにはグツグツと煮えたぎる作曲者の初期衝動が生のまま渦巻いている。

筆者はヴォルフのリートを好むが、これは正直に言ってよく分からない(苦笑)。いや、分かるというような曲ではないのかも知れない。作曲者の内的衝動が形式という洗練を経ずに自ずと噴出したような曲だから、聴き手は「何だか分からないがその病的な熱にあてられた」とするのが正しい体験なのかも知れない。

さて、そんな難曲をモルゴーアの面々は実に誠実に演奏し切った。実演で聴いてもやはり全体像云々というような作品ではないと思ったのだが、そんな破綻ギリギリの本作をモルゴーアはありのままに全身全霊で受け止めて作品の持つ得体の知れないパワーに拮抗した演奏を展開したのだ。前回の定期ではロックバーグの弦楽四重奏曲第3番という難曲を取り上げたモルゴーアだが、彼らはどんな曲でもその曲の持つエネルギーを間引くことなく正面から体当たりする。時に技術的破綻はあれど、モルゴーアをモルゴーアたらしめているのはこの態度ではなかろうか。そしてまた、この若き日の自己模索的な作品を経て後年ヴォルフが遂にリートというミニチュアな形式にその適性を発見し紛れもない傑作を量産することを考えるとある種の感慨を抱いたりもする。

アンコール前、いつもの荒井氏トーク「病んだ作曲家の病んでいない頃の作品を演奏します」ということで『さすらう若人の歌』から「朝の野を歩けば」。どなたの編曲かは存知上げないが非常に美しい弦楽四重奏曲版である。荒井氏のチャーミングな節回しは絶品。

(2019/2/15)