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間宮芳生90歳記念 オペラ『ニホンザル・スキトオリメ』|齋藤俊夫

間宮芳生90歳記念 オペラ『ニホンザル・スキトオリメ』

2019年1月27日 すみだトリフォニーホール大ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 渋谷学/写真提供:オーケストラ・ニッポニカ

〈曲目〉
間宮芳生:オペラ『ニホンザル・スキトオリメ』(1965)(セミ・ステージ形式)(台本:木島始)
  プロローグ:「年輪の秘密」
  第1景:「森の肖像画コンテスト」
  第2景:「サルたちの姿と魂」
  第3景:「美しい女王ザルの望み」

間宮芳生:『女王ざるの間奏曲』(2018、オーケストラ・ニッポニカ委嘱作品、世界初演)

  第4景:「絵かきザルの投獄」
  第5景:「奇怪な絵 ざわめく森」
  第6景:「ほら穴の爪あと」
  第7景:「末期の耳」
  第8景:「炎あれくるう」
  エピローグ:「芽生えの肌ざわり」

〈演奏〉
指揮:野平一郎
演出:田尾下哲
衣裳:萩野緑
照明:西田俊郎

スキトオリメ(テノール):大槻孝志
くすの木(バス・バリトン):北川辰彦
女王ザル(ソプラノ):田崎尚美
オトモザル(バリトン):原田圭
ソノトオリメ(バス・バリトン):山下浩司
男(役者):根本泰彦

合唱:ヴォーカル・コンソート東京
   コール・ジューン

管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ
ゲスト・コンサートマスター:山口裕之

オルガン:室住素子
バグパイプ:上尾直毅(加藤健二郎より変更)
リコーダー:高橋明日香
リュート:金子浩

副指揮:四野見和敏
カヴァー:大槻聡之介(「くすの木」)
舞台監督:奥平一
発音指導:間宮芳生
音響:山中洋一
コレペティトゥール:矢田信子
字幕:門倉百合子(監修:間宮芳生)
字幕操作:(株)イヤホンガイドG-marc加藤淳吾
字幕指揮:竹之内純子

制作:芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ

 

1965年の初演以来、54年間再演されなかったという幻のオペラ『ニホンザル・スキトオリメ』、筆者がこの作品の名前を聞いたのは長木誠司『戦後の音楽』(作品社、2010年)においてであった。その「日本語の抑揚を活かした、ひいては日本語のことばとしての魅力ないしは”音楽性”を活かした要素」(335頁)とはいかなるものかを実際に聴かねばならない、と意気込んで会場に向かった。

では、その実演はどうであったかと正直に述べると、作品と作曲家の音楽的・オペラ的意図と思想が十全に理解され表現されていたとは言い難い。

まず――これはアマチュア・オーケストラであるニッポニカには酷な評とは知りつつも――間宮の本作が要求する高度な技量、特にその精緻な管弦楽法にオーケストラがついていけていなかった。今回の新作世界初演管弦楽作品『女王ざるの間奏曲』で最も明らかだったが、すみだトリフォニーホールの箱の大きさに、音量が大きくないパートの響きが見合っておらず、音量の大きなパートがそれらを圧してしまっていたのである。全パートでの轟音が渦巻く第8景などは楽団員の気迫が直に感じられたのであるが。

他方、歌手はというと、女王ザルの田崎尚美のアリア、そしてシュプレッヒゲザングでの絶叫とも言うべき歌唱には終始圧倒されたものの、歌手全体としては、先述の長木著にある「日本語のことばとしての魅力」を感じられたかというと、やはり作品理解の不足を思わざるを得なかった。
メロドラマやシュプレッヒゲザング部分での、管弦楽と歌手の「日本語としての抑揚とリズム」がズレており、それらが西洋のものを基準としていたように感じた。

この、間宮が腐心した「日本語」への、本公演の歌手たちの、自分のメインフィールドたる西洋的歌唱法での言わば無頓着なアプローチは、再現不足だけに留まるものではない。このオペラの意味に関わる問題なのである。

我々はこのオペラで何を聴いて、何を知ったのか、それがこの日本語による表現と密接に関わっているのである。

本公演ではっきりと聴こえてきたものは、女王ザルの歌のように、言わば「正しい」音楽、つまりソノトオリメの描く、女王ザルの美しい肖像画のような「見ることができる」音楽であり、また本作品の台本の表面上の政治性を表現したものである。

それに対して、「聴こえなかった」ものは、スキトオリメの描く「どのような絵なのかわからない、もしかすると見えないかもしれない絵」のような音楽である。この音楽こそが、「芸術」と「歴史」という主題を担うはずであったのであり、「正しくない」音楽によってのみ表現され得るものなのである。

端的に述べると、語り手役の「くすの木」の「関西アクセント」(プログラム14頁)によるシュプレッヒゲザングが全く日本語でも関西アクセントでもなかったのである。長木の著作の譜例や、間宮芳生『日本民謡集』の楽譜を見ると、その日本的・方言的シュプレッヒゲザングは、ただ楽譜通りに歌ってもその意味をなさず、作曲者の想定した歌唱法を深く学ばなければ成立しないものである。西洋的歌唱法という前提を崩すことによって初めて可能になる歌唱表現がなされなければならなかったのだ。

ニホンザルの滅亡とスキトオリメの絵の目撃者にして、それを語り受け継がせていくものたる「くすの木」が西洋的正しさとも日本標準語的正しさとも異なる、関西アクセントによるシュプレッヒゲザングという歌唱法を何故取らねばならなかったのか。これこそが「正しい」音楽によって表現できる政治性以上の、「正しくない」音楽によってのみ表現できる「芸術」と「歴史」に対する本作品の間宮の洞察の要であったのである。木島始の台本だけでは表現できない、オペラによってのみ表現できる真理だったのだ。

くすの木は燃え残った根っこだけの存在である。だが、その燃え残った根っこに刻まれたスキトオリメの絵という「見えないかも知れない」「正しくない」ものこそが芸術と歴史の真の語り手であり、そのために「関西アクセントによるシュプレッヒゲザング」という「正しくない」表現を取ったという作曲者の意図、「たったひとりのゲリラかもしれない」(*)ものを仕掛け続けてきた間宮の真意をこそ理解してもらいたかった。

筆者は十数年前、東京文化会館小ホールでの岩城宏之指揮による東京混声合唱団演奏会で(**)、岩城が間宮を舞台に上げ、「日本ではもう彼にしか歌えない滅んでしまった民謡」を間宮が独唱するのを聴いた経験がある。間宮が不在ならば、「民謡の滅亡」は既に「歴史」となってしまっていた、そのことへの恐怖感を改めて思い返した。ニッポニカが本公演に込めた思いはおそらく「民謡の滅亡」を間宮のこのオペラによって食い止めようとするものであっただろう。その真摯な心意気は誠に共感できる。だが、実演としては、残念ながら「民謡の滅亡」という現実を突きつけられてしまったと言わざるを得ない。

この「歴史」をどうにかせねばならない、その思いは間宮もニッポニカも筆者も共有するものであろう。それゆえ、この作品の「完全な上演」のために日本の音楽界が動いてくれることを願う。

(*)間宮芳生『現代音楽の冒険』岩波新書、1990年、はしがきiv頁。
(**)東京文化会館アーカイヴで辿ると、2003年の第189回定期演奏会と考えられる。

(2019/2/15)