ホアキン・アチュカロ ピアノ・リサイタル|齋藤俊夫
2019年1月21日東京文化会館小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
〈演奏〉
ピアノ:ホアキン・アチュカロ
〈曲目〉
ショパン:『24の前奏曲』Op.28
アルベニス:『グラナダ』(〈スペイン組曲〉Op.47より)
ファリャ:『アンダルーサ』(〈4つのスペイン小品〉より)
ドビュッシー:『ヴィーノの門』(〈前奏曲集 第2巻〉より)
ドビュッシー:『グラナダの夕べ』(〈版画〉より)
ファリャ:『クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌』
ファリャ:『アンダルシア(ベチカ)幻想曲』
(アンコール)
グリーグ:『抒情小品集』よりOp.54-4
ファリャ:『火祭りの踊り』
ショパン:『ノクターン』Op.9-2
ある世界的な大女優――もちろん絶世の美女、だがもう若くはない――が、手を繋いで歩いている老夫婦を見て、「ああ、私も一生で一度でも結婚というものをしてみたかった!」と嘆いたというエピソードを聞いたことがある。
ホアキン・アチュカロとピアノとの間にはこの老夫婦の愛――それはプラトニックというよりはむしろエロティックな――と美、さらには最高善のイデアにまで至る「真実」があると言えよう。
ショパン『24の前奏曲』第1番冒頭からその「正直」な長調に打たれた。美しいが、華美たるところが全くない。
第2、4、6番の短調の素朴極まりない旋律に宿る感情――おそらく並のピアノ教室やコンクールでは「もっと歌って」などと指導されそうな表現の正直さよ。
第7番など、筆者は今まで侮りすらして、この美しさに気づかなかったことを恥じるばかりであった。
第9番の和音の存在感、第12番、第16番の指の回りの速さのような技巧を超えた迫力に圧倒され、また第14番では心からの恐怖を喚起させられた。
反対に第13、15、17番では長調に宿る切なさに遥か遠い日の美しい思い出をアチュカロと共に見るような心地がした。
第18番の反骨の闘志漲る打鍵!美しさなど逃げと知れ!そこから第19番で一転して朗らかな喜びが、しかし第20番で大袈裟な身振りがないがゆえの深い悲しみに浸る。
第21番で華やかだがどこか「別れ」を感じさせる歓喜がわき、第22番でまだ戦いは続く。
そして第23番でラストダンスが天上的に美しく踊られたが、その次の第24番の短調で表された「真理」に慄然とし、最後の低音の強音が消えるまで目を見開いてステージ上のピアニストとピアノを見つめた。そこにはピアノとピアニストしかいない。だが、彼らのショパンはそれだけで「音楽の全て」を体現していた。
後半はアルベニス、ファリャ、ドビュッシーによる「アラウンド・グラナダ」と題されたプログラム。
アルベニス『グラナダ』は「郷愁の中の酒場」にかかる歌謡曲の正直な感情。「クラシック音楽」などという括りがいかに音楽世界を狭めているかと顧みつつ、その荒々しい艶やかさに酔う。
ファリャ『アンダルーサ』は作曲・演奏技法の破格さが「リアリズム的正直さ」に繋がるという逆説。その反対にドビュッシー2曲は美しい夢、あるいは「嘘」に徹する人間としての「正直な幻想」にあえて騙され、そしてファリャ『ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌』での彼への返答に、騙されてもなおも失われない友情にも似た音楽美の真実を見た。
プログラム最後の『アンダルシア(ベチカ)幻想曲』は食肉目ネコ科的とすら形容できる獰猛さとのどかさ、そして最後の舞曲部分では凄絶な官能の法悦すら味わった。
自ずから沸き起こった拍手に応えてのアンコール三曲、グリーグの静かな佇まい、ファリャの豪快にして若々しい踊り、そしてショパン――揶揄的に使われる「音楽の精神性」という単語は使うまい――演奏前にアチュカロが語った”emotion”つまり「感情」というものがいかに人間と、そして音楽と深く結びつき、美と真理――世界的な絶世の美女ですら憧れた老夫婦の手に宿る「感情」の美と真理――を表すかを目の当たりにした。
老成、枯淡でも、気迫の空回りでもない、歴戦の豪傑のみが辿り着き得る自由自在の「正直にして真実の感情」により生まれ変わった気分で、筆者は「まだまだ音楽と向かい合わねば」との決意を新たにした。
(2019/2/15)