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アンサンブル・ディアーロギ|大河内文恵   

アンサンブル・ディアーロギ  

2019123 浜離宮朝日ホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi
写真提供:アレグロミュージック 
 

<演奏>
アンサンブル・ディアーロギ:
  クリスティーナ・エスクラペス(フォルテピアノ)
  ジョセプ・ドメネク(オーボエ)
  ロレンツォ・コッポラ(クラリネット)
  ピエール=アントワーヌ・トレンブレイ(ナチュラル・ホルン)
  ハビエル・ザフラ(バスーン) 
 

<曲目>
モーツァルト:オーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンとピアノのための五重奏曲 変ホ長調 K.452
ハイドン:オーボエ、バスーンとピアノのための三重奏曲 ニ長調 Hob. XV. 16 
 

~休憩~ 

ベートーヴェン:ホルンとピアノのためのソナタ ヘ長調 Op.17
ベートーヴェン:オーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンとピアノのための五重奏曲  変ホ長調 Op.16  

~アンコール~
モーツァルト:オーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンとピアノのための五重奏曲 変ホ長調 K.452より、第3楽章 
 

 

ピリオド楽器奏者の技量が飛躍的に向上した現在でも、小編成のピリオド管楽器によるアンサンブルの演奏会はあまり多くはない。その理由は2つ考えられる。まず1つは弦楽器に比べて、管楽器のピリオド楽器を操ることは難しく、最も技量の差が如実に出る小編成をやるには勇気が必要であること、もう1つは、管楽器の場合、ピリオド楽器の主たるフィールドとなる18~19世紀はまさにさまざまな管楽器が音楽の舞台に上がり始め、改良・変革された時期であったために、後の時代に比べてこうした編成のレパートリーが少ないことが挙げられるであろう。  

それでもなお、このようなアンサンブルを組んで演奏会をするというからには、それなりの自信があってのことだろうと半ば期待し足を運んだのだが、その期待をはるかに超えるものだった。  

モーツァルトの五重奏曲が始まってから数十秒間、ピアノの音が弱いかなと思った。モダン・ピアノではなくフォルテピアノを使っているのだから音量が小さいのは当然で、それを承知の上で聴いているはずなのだが、耳がモダンの管楽五重奏の音を勝手に求めてしまっているのだ。それだけ、モダン楽器の音量バランスは我々の耳に染み込んでいるということだろう。別の見方をすれば、管楽器は音量に関してだけはモダンと大きな差がないということも言える。  

しばらくたつとピアノの音量が気にならなくなった。耳が慣れたということか。むしろ、こういった場合のピアノvs残りの楽器というバランスではなく、すべての楽器が均等なバランスになっていることが心地よくなってくる。そういえば、楽器の配置も、通常と異なり、半円の真ん中にピアノが縦向きに、つまり奏者の顔が聴衆の方を向いている形になっていて、全員が対等であることが視覚的にも明白である。  

始まって比較的すぐの下降音型で楽器それぞれが短いソロを吹くところでは、ちょっとした自己紹介がおこなわれ、各楽器がその魅力をアピールする。そうすると1つ1つの楽器の音色が耳にセットされて、一緒に演奏していても個別に楽器の音が聴こえてくるようになる。モダンの楽器だと楽器同士の親和性が高いために、同時に吹いてしまうと溶け合ってしまって、どの音がどの楽器か曖昧になるが、ピリオド楽器だとそうはならない。モーツァルトがそこまで考えて曲を書いたのかどうかはわからないが、もしそうだとしたら、相当の策士である。  

2楽章で美しすぎるソロを堪能し、3楽章に入ったら、「これぞモーツァルト!」。彼のオペラの一節を聴いているかのような躍動感に心が躍る。ピアノのパートを聴いていると、そうかこれはピアノ協奏曲なのかと思い当たる。少なくともショパンの頃あたりまでピアノ協奏曲にはピアノ+オーケストラ版のほかにピアノ+室内楽版があったことが知られているが(小岩信治著『ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史』参照)、この曲はまさにピアノ協奏曲のピアノ+管楽伴奏版といえるだろう。それは途中に、協奏曲のカデンツ前の四六の和音が入ることでますます強調される。その後がピアノソロではなく、管楽アンサンブルの見せ場になるところで期待を裏切られるのだが。  

次の三重奏曲はこちらを向いたピアノを挟んで左側にバスーン、右側にオーボエという配置。この曲はフルート三重奏曲として、フルート、チェロ、ピアノで演奏されることが多いが、今回はフルートの代わりにオーボエ、チェロの代わりにバスーンで演奏された。フルート三重奏の編成だと、フルートが圧倒的主役でピアノとチェロは伴奏といった風情になるのだが、この演奏では3つの楽器はあくまで対等である。それところか、それぞれの楽器の良さが引き立てられていて、聞いているうちに「ハイドン、神!!」と叫びたくなった。ハイドンという作曲家はモーツァルトやベートーヴェンに比べて地味な印象を持たれ冷遇されているが、いやはやもっと演奏されてしかるべき作曲家であることが如実にわかる演奏だった。  

休憩後はベートーヴェン。演奏前に、ホルンのトレンブレイが日本語で語り始め、「まったく性質の異なる2つの楽器で曲を作るという、クレージーなアイデアで作られた」といったことを言って笑いを誘う。前の曲では4つの管楽器のうちの1つにすぎなかったホルンが単体であらわれると、ナチュラル・ホルン独特の、音の高さによって音色が変わってしまうところが耳につく。だが、それすら忘れさせてしまう弱音の美しさといったら。ナチュラル・ホルンは管の長さで音を変えられず、口元と管の中に差し込んだ右手だけで音を作るから音量のコントロールも難しいのではなかったっけ?難しいといえば、モダンのホルンでも難しい超絶早いパッセージも驚異的に吹きこなしていた。  

それと同時に、「あれ?ピアノ、めちゃめちゃ巧くないか?」と気づいた。この曲、ホルンが難しいばかりでなく、じつはピアノも上手に弾かないと台無しになる曲なのだが、いやはや遅まきながら、このアンサンブル、管楽器が売りのように見せかけながら、一番巧いのはピアノというとんでもない隠し玉を持っていたのか。  

ホルンとピアノだけで、これだけ多彩な音の世界が繰り広げられるさまを聴いていて、楽器の発達って何なんだろう?と考え込んでしまった。最初に管楽器の改良・変革が行われた話をしたが、そこでおこなわれたのは、吹きやすさや音色の安定性を高めることだった。それは奏者のため、聴き手のためであったはずだが、それで失った多様性と豊かな音世界という代償の大きさには茫然とするしかない。  

最後はベートーヴェンの五重奏曲。今度はクラリネットのコッポラが出てきて日本語トーク。この曲にはオペラのような3つのキャラクターがあると言った後、そのキャラクターを表情豊かに実演し、会場は笑いの渦に包まれた。  

フォルテピアノのエスクラペスの演奏を聴いていると、この楽器の鳴らしかたを熟知しているのがわかる。強すぎず弱すぎず、この楽器の一番きれいに鳴るところで弾いていて、無理がない。そういえば、最初のモーツァルトから、いつのまにかピリオド楽器の演奏を聴いていることを忘れていた。彼らの演奏は、ピリオド楽器の欠点を補うといった視点ではなく、最初からこの楽器で演奏が組み立てられていて、発想の原点がすべてこの楽器にあるために、ピリオド楽器に付きまといがちな「不自由さ」がまったく感じられないのだ。  

アンコールは、最初に演奏したモーツァルトの五重奏曲の3楽章。「4人の男と美しい女性が居合わせて、問題発生!」というシチュエーションが紹介され、芝居仕立てでおこなわれた。彼らの茶目っ気たっぷりの演技に笑ったり、にんまりしたり、同じ曲をもう一度聴いているなんてまったく感じられない「芝居」を堪能した。どこまでも聴き手を愉しませようとする彼らのサービス精神に脱帽である。  

(2019/2/15)