だからどうしたクラシック|ショパン 『夜想曲全集』|松本大輔

Nocturnes : Rubinstein
ショパン 『夜想曲全集』

text by 松本大輔(Daisuke Matsumoto)

レーベル/商品番号:SONY 8869769041-2

<曲目>
ショパン :夜想曲全集

<演奏>
アルトゥール・ルービンシュタイン

録音:1965年8〜9月, 1967年2月

アリアCDでの掲載URL
http://www.aria-cd.com/arianew/shopping.php?pg=label/sony88697690412

学校から帰ってきた兄貴がおもむろに言ってきた。
「最近図書館に東高のかわいい子がおるぞ」
東高というのはうちの高校。おれはそこの1年生。
図書館というのは愛媛県立図書館。松山城のほとりにある。自宅の近くなので小学校の頃からよく通っていた。
ちなみに兄貴は東高とは別の超進学校の3年生。共通一次が終わって、2次試験まで学校帰りに図書館で勉強してるんだろう。
「名前、なんていうんやろなあ。多分1年生やと思うから、明日だいすけ図書館行って名前調べてきて」
「なんでやねん」
なんでわざわざおれが図書館まで行ってその子が誰か確かめんといかんのか。そんなに暇じゃない。

と言いつつ、翌日、気づいたら図書館に寄ってしまっていた。
兄貴のお目当ての女の子は「小説」の前の8人がけテーブルにいつもいるらしいが・・・。
いた。
東高の女生徒が二人。
おれは同じテーブルの一番遠い席に座った。
ふたりとも自習していて、おれの存在にはまったく気づいてない。
一人はおれよりでかい大魔神みたいな女生徒。ときどき学年集会とかで見かける。兄貴の趣味はよく分からんが、愛しの君はおそらくこの子ではない。
その隣に、ちょっと小柄なおかっぱの女生徒。
こんな子いたかな、と思うが・・・確かに・・・ちょっと・・・可愛いかもしれない。

「今日、図書館に行ったら東高の子、おったよ」
「かわいかったやろ!!」
「学校では見かけたことないし名前は分からん」
「なんでやねん、教科書の名前見るとか、さりげなく話しかけるとか何ぼでも方法あるやろ」
なんでやねん、はこっちのせりふだ。なんでおれが兄貴のお目当ての子の名前を確かめんといかんのだ。

とは思うものの、翌日なんとなくまた図書館に行ってみた。言い訳するようだが、膝を痛めて陸上部を休部していて、放課後はわりと自由だったのだ。
そうしたら兄貴がいた。
大魔神と愛しの君も昨日の席にいた。兄貴は昨日自分が座っていた席にいる。
兄貴の隣に座ったら筆談で話しかけてきた。
「声掛けてみるか??」「むりむり」「こっち見てないか?」「ぜんぜん見てない」「おれらのこと話しよるか?」「ぜったい話してない」
1時間ほどして大魔神と愛しの君は図書館を出て行った。
「ぜったい、こっち見とったって」「いや、ぜんぜん見てなかった」「そうかのー」

翌日は土曜日だったので、午後、また飽きもせず兄貴と図書館で待ち合わせ。兄貴の話では先週愛しの君は土日とも来ていたらしい。
「なんかこっち見とった気がする」「気のせい」「鉛筆かなんか落として拾ってもらえ」「遠すぎやろ」
とか馬鹿兄弟が筆談で会話していたら、3時くらいに大魔神と愛しの君は帰ってしまった。
「先週は閉館までおったのに、今日は早いのー」
ということで我々も帰ることに。

途中レコード屋に寄る。こんな馬鹿兄弟だが、月に一回、小遣いを出し合ってクラシックのレコードを買いに行っていた。
この日買うのは兄貴の強い希望でショパンの『ノクターン』。半年ほど前に買った『エチュード』がよかったので、兄貴が次は『ノクターン』と言ってきたのだ。自分も『ノクターン』の作品9-2という曲が大好きだったので文句はなかった。
買ったのはルービンシュタインというひとが弾いたアルバム。
さっそく家に帰って聴いたが、大好きな9-2以外はもうひとつぴんと来ない。2枚なのでなかなか全部聴くのは大変だし。

翌日日曜、この日は自分も兄貴も図書館には行かず。
兄貴がいない間に作品9-2だけを10回くらいカセットテープに入れてこの曲だけ聴きまくった。
次の日、月曜、学校。
ふと気づいたが、大魔神はよく隣の4組か、その隣の3組あたりの廊下で見かけることが多い。ということは、愛しの君も同じクラスの可能性が高い。
ということで、昼休みの時間にとくに用もないのに4組の陸上部の知り合いのところに遊びに行った。
そうしたら教室に入るときいきなり愛しの君と鉢合わせした。一瞬だが目も合った。
おれという人間を認識しているかどうか、・・・0.02秒目が合っただけで判断するのは難しい。が、本能的に、愛しの君の瞳孔が開き、その瞳の奥にかすかな驚きとかすかな喜びを察知した・・・ような気がした。
まあ、それは勘違いかもしれない。が、愛しの君が4組の生徒なのは間違いない。
隣のクラスだったのか。
なら話は早い。4組の友人のところにいってどうでもいい話をした後、さりげなく(でもないが)「4組にちょっと小柄でおかっぱの子がおるやろ、「色の白い」、「なにー、だいすけ、好きなんか」、「ときどき図書館でみかけるんよ」、「ほうかー、図書館かー、すごい頭いい子やからな〜」、「名
前なんていうん??」「のもとや、のもと」。まあ、素朴な友人である。

その日図書館は休み。自宅にて。
「のもとっていうらしいよ、あの子。隣のクラスやった」
「のもと?下の名前は?」
「そこまではしらん」
「なんでやねん、普通、名簿ですぐ調べるやろ。何組や、6組か4組か」
「4組」
ものすごいスピードで兄貴が東高の名簿を取ってくる。
「おった、のもと・・・すみれ・・・のもとすみれやな。ええ名前やな。すみれちゃん。野に咲くスミレか〜」
超進学校行って医学部目指しているわりにはお馬鹿な兄である。
「そうや、だいすけ、おまえせっかく「ノクターン」の全曲買ったのに9-2ばっかり聴くのはやめとけよ」
ぎゃ、あの9-2詰め合わせテープ、見つかってたか。

翌日図書館に行った。今日は兄貴は来られないといっていた。
スミレ嬢がいた。珍しく大魔神はいない。
テーブルには自分とスミレ嬢の二人だけ。こんなのは初めてである。
いつもよりひとつだけ近い席に座った。
ふとスミレ嬢のほうを見ると、・・・おや・・・テーブルの上によく見かける袋がある。
兄貴といつも行っているレコード屋の袋だ。
レコード聴くのか!?
話しかけるなんてぜったいに無理だと思っていたのに、自然と声が出た。
「レコードなんか聴くん?」
どう考えても自分に話しかけていると気づいてスミレ嬢が顔を上げた。
思ったより迷惑そうな顔ではない。まわりに人もいないし、話してもおかしくない状況。
「え?」
そう言ってスミレ嬢は手もとの袋を見た。おれは案外スムーズに次の質問の言葉を発した。
「なに聴くん?それ」
「これ?」
そういうとスミレ嬢は袋からレコードを半分取り出した。
ショパンだった。うそみたいだが本当である。
「え。おれもちょうどショパン買ったんよ、兄貴がショパンがいい言うて」
「お兄さん?」
「ほら、いつもここ座ってる愛光の」
愛光というのが兄貴の高校の名前だ。
「この間買ったんは『ノクターン』。それは何の曲なん?」
「『ワルツ』。でも『ノクターン』も聴くよ」
「そうなん!?おれは9-2がすごい好きでそればっかり聴いてたら兄貴にいい加減にせえ言われた」
いやに饒舌なおれに、スミレ嬢もなにか応えそうな、でもどうしようか、ちょっと迷いながら・・・こう言った。
「・・・私は9-1が好き」
9-1?
9-2の前の曲?
全然記憶がない。

そうしたら断頭台のギロチンが落ちるような音がして、突然入り口の扉が開いて大魔神が入ってきた。おれが彼女に話しかけたのを知って魔物から守るかのように。さすが大魔神。
二人が会話をしていたなどということにはまったく気づきもせず、空気を読むようなこともなく、大魔神はスミレ嬢の隣にどっかと座って、テーブルの上に教科書をドサドサと置き始めた。
もちろん会話はそこで終わり、おれは30分ほどで図書館を出た。

家に帰って、ルービンシュタインの『ノクターン』のアルバムを取り出した。
ショパンの『ノクターン』作品9-1。『ノクターン』最初の曲。
・・・どんな曲だったか。

始まった。

ああ、そういえばこんな曲だった。
9-2の前にさりげなく始まり、さりげなく終わる曲。
ああ、でも言われてみればなんと清楚で可憐な曲。
そして切ない。
ショパンが、まだ若いうちに味わった苦難と絶望の中で描き出した、なんとも切ない曲。
美しいのに、こんなにもやるせない、まるで諦念のような想い。
祖国のそして自らの、思うようにならない現実、そして暗澹たる未来。
20歳にしてもうこんなにも暗く美しい曲を書かねばならなかったショパン・・・。
「スミレ嬢、今日ショパンのレコードもっとったよ。『ワルツ』やって」
「ほんまか。我がスミレ嬢、さすが趣味がええなー。今度はショパンの作品について談義したいのー。ん?で、なんで分かったん?」
今日の話をしたら、「これで完全に知り合いやないか、今度ダブルデートに誘ってみよか」と。
そうなったらおれの相手は大魔神ということになるやないか。
兄貴には、スミレ嬢が『ノクターン』の9-1が好きだったということは、なんとなく言わなかった。

次の日、図書館に行った。
スミレ嬢はいなかった。

次の日もいなかった。大魔神だけがいた。
ひょっとしておれが話しかけたのが気に障ったか?それとも風邪か?

翌日もスミレ嬢はいなかった。
大魔神だけがいた。
とりあえずちょっとだけ勉強して帰ろうと思って問題集を解いてたら、大魔神が目の前に立っていた。
「うわ」
「これ、スミレちゃんから」
大魔神が何かを差し出した。
手紙だった。
手紙。クリ−ム色のかわいい。
「え?」
というまに大魔神は席に戻ってしまった。
手紙・・・クリーム色に淡い色の花びらがあしらってある。
気のせいか、ほんのり甘い香りがする。
これは・・・
これは・・・手紙だが・・・しかし、どう考えても普通の手紙じゃない。
明日の生徒集会の通知とか、お勧め参考書の連絡とか、そういう内容でないことは明らかである。
ありえないことだが・・・これは・・・きわめてプライベートな手紙ではないか。
そしてひょっとしてひょっとすると、この世で最も嬉しい、もっともハッピーなたぐいの手紙ではないか・・・

しかし今ここで読んだら大魔神にあさましいやつと思われてしまう。
ここはがんばってあと30分は何食わぬ顔をして勉強をして、家に帰ってから読もう。

家に帰ったら兄貴はまだ帰ってなかった。兄貴に報告してからとも思ったがそれもややこしくなりそうなので、今のうちに読んでしまおう。
カッターを手にとって手紙を開けようとして・・・思いとどまった。
ここはあの曲をかけないといかんだろう。
あの曲こそ、この手紙を開けるときのセレモニー音楽にふさわしい。

ショパンの『ノクターン』。

ターンテーブルにはもう載っている。はやる心を抑えて針を落とす。
淡く切なく、幻のような作品9-1がかかる。
気を取り直して手紙を手に取る。
開封して取り出すと、手紙は適度な重力を伴って、自然と開いた。

突然のお手紙ごめんなさい。
私は東高校の野本スミレといいます。
図書館でよくお勉強をされてましたね。
ショパンを聞かれるというのはびっくりしました。私も好きなので。

実は私、神戸の高校に転校することになったんです。
この手紙を読まれるときは、もう松山にはいないと思います。

転校!?
転校!?
転校!

なので最後に思い切ってお手紙を書くことにしました。
図書館でお見かけするのは私には、ささやかではありますが、とても楽しみでした。
松山に帰ってくることはあまりないとは思うのですが、またいつか図書館でご一緒できるといいなと思っています。

こんなことがあるのか。
こんなすごいことがあるのか。
そしてこんな残酷なことがあるのか。 咲く前に散ってしまったつぼみのような。

ほとんど意思の疎通などなかったような気がするのに、それでもこんなふうに思いが通じることがあるのか。
こんなふうに始まる恋があるのか。
これはショパンが引き合わせた恋なのか?あまりにも切ないこの恋に9-1は似合い過ぎる。
いや、神戸は遠いと言えば遠いが、2年後に神戸の大学に行くという選択肢だってある。あきらめることはない。

『ノクターン』作品9-1が終わった。

真っ白な空白の時間。
ひとり興奮するおれの目に、最後の一文が飛び込んできた。

どうか私の思いをお伝えください、お兄様に。

静かに9-2が始まる。

• ・・思うのだが・・・なんとなく、2月のショパンは苦い。

(2019/2/15)

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松本大輔(Daisuke Matsumoto)
1965年、松山市生まれ。
24歳でCDショップ店員に。1998年に独立、まだ全国でも珍しかったネット通販型クラシックCDショップ「アリアCD」を春日井にて開業。
クラシック専門CDショップとしては国内最大の規模を誇る。
http://www.aria-cd.com/
「クラシックは死なない!」シリーズなど7冊の著書を刊行。
愛知大学、岡崎市シビック・センター、東京のフルトヴェングラー・センター、名古屋宗次ホール、長久手、一宮、春日井などで定期的にクラシックの講座を開講。