カデンツァ|不思議な響き〜庭の梅とベルチャ弦楽四重奏団〜|丘山万里子

不思議な響き〜庭の梅とベルチャ弦楽四重奏団〜

text & photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

昨年末、枯れた梅を伐採した。枯れ木を蔦がびっしり覆い、寒空にいかにも不憫であったので。
切ったばかりの切り株は断面30cmほど、日を浴びて濃いピンクのつややかな肌を輝かせ、その瑞々しさに私は息をのんだ。庭師に思わず、綺麗ですねえ!と言ったら、紅梅ですから、と微笑んだ。桜の切り株もそうと知ってはいたが、樹木の血流とそれに染まる花びら一つ一つの命のつよさに打たれ、しばらく眺める。
根の脇から細い枝が数本伸びており、それも切りますか、もう花芽が付いていますが、と問うので、残します、また立派な木になるかもしれません、とそのままにした。
今、その細枝が早春の光に、数輪の愛らしい花を咲かせている。
が、なんと、白いのだ。
いや、実は枯れる2年ほど前から、ふっくりした紅の、まさに紅梅であるのに、ぽつんと1つ2つ白が混じるのに気づいてはいた。見つけた時、ふと、この梅も終わりが近いのか、と思った。
そうして、枯れた。
義父が植えたものであるから、60年は超えるのでないか。
窓から見える桃も、両親が晩年暮らした石和で買い求めた苗木、ぽってり桃色が気に入ったのに、どんどん減って、今や全部白くなってしまったが、こちらは元気。

庭師に訊いてみた。
やっぱり。
木を育てるには種から蒔くと大変だから台木に接ぎ木、品種改良したりもする。紅梅は本当は白梅(台木)で、もともとの性格が出てきたんだろう、桃もそう、だって。
つまり、人為なのだ。
そうして、年月とともに、加えた人為が剥落し、もとのまんまの自分が出てくる。
宮大工の本に似たような話があった。木の持つ性格は全部違う。それぞれ癖があり、年とともにそれが出る。山の東西南北で日差し風雨、地質が異なる、その場での育ち方が癖(個性)で、それを見抜いて適材適所に使うのが千年建築を担う宮大工の仕事だと。(『木のいのち 木のこころ』新潮文庫)
我が家の梅も桃も、もとは白い花の木で、人為であっという間に促成され、それはあっという間に剥げ落ちたのだ。
切り株の鮮烈なピンクは、今はもう褐色に近くくすんだ。その脇で揺れる白い花。
これが貴女の本然だったのね。
そうして、紅を装い続けたもう一つの命の終わりを思う。

先日、たまたま点けた TVでのメダカ自慢。ラメの入ったのとか、ヒレのやたら凝ったのとか、「上見」「横見」の鑑賞に沿って改良された、綺麗な、不思議な、幻想的なメダカの数々。彼らの寿命は2年だそう。
マツコデラックスが、どうやってこんなメダカを作るんですか?
自慢主が、ビニール袋に入れて、上から何かを加え、じゃぶじゃぶ、とやって見せる。
私は思った。
あなたがビニール袋に入れられ、上から何かかけられ、じゃぶじゃぶ撹拌され、ラメの入ったあなたにされ、おお、綺麗なのができたってなったら、それ、どんな気分よ。

昔、イギリスに旅した時、ちょうど狂牛病騒ぎで、ロンドン近郊へのバス・ツァーは立ち入り禁止の緑地帯をはるか遠目だった。どんより曇った空の下の荒涼に竦む。市内のステーキハウスはすべて閉店だった。

先般、ゲノム編集で双子が生まれた、というニュース。
「生命倫理」が言われて久しいが、禁は必ず破られる。それが人の欲望で、欲望は限りなくふつふつとめどない。
以前、ご贔屓の若手男優目当てでTV『私を離さないで』を見はじめ、回を重ねるごと恐怖が増してゆき、押しつぶされそうになりつつそれでも見続けたが、その原作がカズオ・イシグロと知ったのは彼がノーベル賞をとって。
かつて貧困ゆえの「売血」があったが、今は献血車が旗を立て、道行く人に呼びかける、それは善意の行為としてもはや誰も何とも思わぬ。
闇の「臓器売買」が、献体、臓器提供カードへ。美談でさえある。
次々モデルチェンジで部品交換不可の大量生産の一方で、生命身体パーツはとことん利用しようとする社会の背後にあるものは何?

話は突然、飛ぶ。
先夜聴いた、ベルチャ弦楽四重奏団(2/1@紀尾井)。
私はそれを優秀外科医4名の「完璧オペ」とツイートしたが、その戦慄は、音楽の「肉体」を明晰に腑分けし可視化・可聴化するそのメス捌きへの恐怖であったに間違いない。
モーツァルト、バルトークと続くうち、メンデルスゾーンのオペまで直視できるか、休憩時間、私は凍りつきそうな不安と戦った。
『私を離さないで』から目をそらせなかった、あの時に似て。

例えばモーツアルトのアレグロ・アッサイで感触した「パルス」。ミクロに明滅するその響き。
全プログラムを通じて見られた人工心肺のようなフレージング(収縮膨張)。その波のグラフィックな美しさ。
それはどこから?
あなたの聴取は「異常だ」、と言われるだろう。
確かに。
だが、これは、ベルチャで突然観取されたわけではない。このところ注意して聴いていた内外さまざまなクァルテットの中で、ふっと耳にする「不思議な響き・形」(クァルテットに時折現れ、他の編成だと分かりにくい)で、ずっと私の中に靄い続け、それが、あ、パルス、人工心肺、の単語に結ばれた。
そうして、2017年、合唱団ヴォクスマーナの『未来を担う男性作曲家』での声の扱い(特にデジタルネイティブ世代の北爪裕道『“Multiplex” for 12 voices』 2013 )が一瞬頭をかすめた。
その怜悧な音処理は、ベルチャのメスに似る。

私の「異常」は、白梅からの意識の流れ、都度、立ち止まった「不思議な響き・形」が何か、をつかみたい欲望、つまり今に至る私の心身の全体(個人的文脈)がそう聴いた、その特異さであることは承知する。
だが、聴取とは、誰にとっても等しく、そういうものではないか。

「異常」ついでに、勢いで言う。
いつか私たちの前に、音楽クローンが現れるのではないか。
それを私たちは、判別できない。

生物学者、福岡伸一によれば、「生命とは動的平衡にある流れ」。
生命体とは、静的なパーツから成り立つ分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中にある。それは、
「たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい“淀み”でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が“生きている”ということ」
「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向をたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。」(『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書)

さらに彼は、ニューヨークにのみ感知される振動について語る。
舗道の靴音、古びた鉄管を軋ませる蒸気の流れ、排気口の鉄格子から吹き上がる地下鉄の轟音、塔を建設する槌音、壁を解体するハンマー、店から流れ出る薄っぺらな音楽、人々の哄笑、怒鳴り声、クラクション、サイレン、急ブレーキ・・・絶え間なく発せられるこれらの音が、空に拡散するのでなく、垂直に降下し、マンハッタンの岩盤へ到達、そこに打ち込まれた高層建築の基礎杭を鉄琴のように震わせ、地上に放散される・・・。
「その振動は文字通り波のように、人々の身体の中へ入っては引き、入っては引きを繰り返す。いつしか振動は、人間の血流の流れとシンクロしそれを強めさえする。」

生命と環境との相互作用における一回性を考えるなら。
宮大工は地質を言い、植林の木は使えない、と言う。芽吹きに始まる自然の中での競争を経ていないから軟弱であると。
私たちの地質たる「振動」、日々の営為の蓄積たる環境が私たちの血流をつくり、私たち全体をつくる。私たちはそのような生態系の一つの生命体でしかないのであり、であるなら、ベルチャの「振動」と「血流」にもそれらが沁んでいること。
それを聴く私たちにも。
その不可逆な完成された「一回性」。

白梅は紅梅になり、年月を経て白梅になった。
戻ったのでなく、生きた、生きている、のだ。
音楽もまた、そのような生命体、であるだろう。

私が今、言えるのはそこまで。
だから訊きたい。
あなたは、それをどう聴いた?

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ベルチャSQはBS『クラシック倶楽部』(2019/3/21)で放送される。本誌Contact Usへ聴後をご投稿頂ければ幸いである。

(2019/2/15)