高橋悠治作品演奏会I「歌垣」|齋藤俊夫
2018年12月29日(昼、夜、同演目2回公演)東京オペラシティリサイタルホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 平井洋
『クロマモルフI』(1964)
指揮:杉山洋一、フルート:上野由恵、
ホルン:根本めぐみ、トランペット:上田じん、
トロンボーン:村田厚生、ヴィブラフォン:會田瑞樹、
ヴァイオリン:松岡麻衣子、コントラバス:佐藤洋嗣
『オペレーション・オイラー』(1968)
オーボエ:鷹栖美恵子、荒木奏美
『あえかな光』(2018、世界初演)
指揮:高橋悠治、フルート:上野由恵、クラリネット:田中香織、
ヴィブラフォン:窪田健志、トランペット:宮本弦、トロンボーン:廣瀬大悟、
コントラバス:佐藤洋嗣、ヴァイオリン:伊藤亜美、城代さや香、徳永慶子、印田千裕、
チェロ:中木健二、山澤慧、長谷川彰子、蟹江慶行
『6つの要素』(1964)
指揮:杉山洋一、ヴァイオリン:周防亮介、伊藤亜美、印田千裕、松岡麻衣子
『さ』(1999)
ホルン:福川伸陽
『歌垣』(1971)
指揮:杉山洋一、ピアノ:黒田亜樹、ピッコロ:上野由恵、オーボエ:鷹栖美恵子、荒木奏美、
Es管クラリネット:田中香織、コントラバスクラリネット:原浩介、
コントラファゴット:笹崎雅通、山田知史、ピッコロトランペット:守岡未央
トランペット:上田じん、宮本弦、ホルン:福川伸陽、根本めぐみ、
トロンボーン:村田厚生、廣瀬大悟、橋本晋哉、打楽器:神田佳子、會田瑞樹、窪田健志、
ヴァイオリン:印田千裕、徳永慶子、伊藤亜美、周防亮介、城代さや香、
チェロ:中木健二、山澤慧、長谷川彰子、蟹江慶行、細井唯、山本大
高橋悠治については、いささかながら恥ずかしい個人的エピソードから語らねばならない。15年ほど昔の大学学部時代、現代音楽もクラシック音楽もポピュラー音楽もお互い「それなりに」愛好していると自負していた友人と2人、飲み屋で彼についての「悪口」を言い合っていたのである。
「何故自由なはずの現代音楽の世界で彼は人に命令をするのか」「何故こんなに面白いポピュラー音楽が貶されねばならないのか」「何故ベートーヴェンの精神性についての悪口を延々連ねた一方でバッハの精神性を散々語るのか」などなど、安酒と共に言い合い、オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』の酒(つまり筆者たちにとっての音楽)と神(つまり高橋)についての詩を吟じたりしていたのだ(*)。
だが、その2人は、高橋の音楽を実はあまり聴いたことがなかったのであり、話はほとんど彼の著作だけに基づいていたのである。
そんな筆者を「お前は音楽家をその音楽ではなく言葉でわかった気になっているのか」と叱ったのは、大学院の先輩であったろうか。
というわけで筆者は「高橋悠治の音楽を聴かねばならない」と悟ったのだが、独奏曲などはそれなりに聴く機会があるものの、室内楽以上の編成になるとなかなか聴けないままであった(**)。それだけに今回の演奏会への期待は否が応でも高まらざるを得なかったのである。
そして、やはり高橋悠治は音楽家・作曲家として凄い人間である、ということを改めて知らしめられた。
『クロマモルフI』、作曲法、構造は高橋の師クセナキスの1960年頃の『Analogique A et B』(1958-59)から『Morsima-Amorsima』(1962)当たりに近いと思われるが、音響としてははるかに「優しい」のだが、全く隙がない。どうしてこのようなアンサンブルが書けて、また演奏できるのか、という驚きと共に聴きいった。
『オペレーション・オイラー』、これもまた、作曲理論だけ抜き出せばクセナキスのチェロ独奏曲『Nomos Alpha』(1966)をオーボエ二重奏曲にした、と言えるのかもしれないが、聴こえる音楽の感覚は全く異なる。オーボエ2人が全く無関係のようでいて、もしかすると合っているようでもあり、耳と脳の奥で実に複雑かつ自由で「面白い」世界が広がる。ジャズなどの即興音楽の最上質のものがさらに彫琢された音楽、とでも言い得ようか。
世界初演・自作自演の『あえかな光』はクセナキスの超絶的構造ではなく、ブーレーズがトータル・セリエリズムから脱しつつも論理性を保った1950年代後半から1960年代前半の音楽、それを武満徹の柔らかな音色で包み、さらにヴェーベルンのミニアチュールにまで切り詰めたような、高橋の至った「老成」とは全く異なる穏やかだが光に満ちた境地を確認させられる音楽であった。
4人のヴァイオリン奏者による『6つの要素』は『クロマモルフI』と同年の作なのだが、聴いた限りではどこにもクセナキス的な要素は見当たらない。ヴィブラートなしのアルコの重なり合いを主として、ピチカート、スピッカートが散りばめられる、旋律やリズムなどない音楽なのだが、その透明な美しさたるや筆舌に尽くし難い。
ホルン独奏曲『さ』、楽器のベルに差し込んだ右手を使って音高・音量・音色を動かし、息音や発声などの特殊奏法も活用される。特筆すべきは、向かって左奥、中央前、右手前、の3箇所を5回に分けて移動して演奏するその位置に音としての意味があることである。向かって右に置かれた蓋を開けたグランドピアノの弦が、ホルンの音に共鳴すること、つまり、ホルンを演奏する位置によってピアノの残響を制御していたのである。最もピアノに近い右手前での演奏では、ホルン一人で無人のピアノと合奏している、と言うべき音響であり、反対に最初と最後の左奥の演奏ではピアノの残響はなかったのである。いや、決してこのような「アイディア」だけで語れる音楽ではない。最後に長い長いディミヌエンドで終わるまで、ホルンの豊かな音を満喫できた。
実に中学生の頃に高橋悠治に直接電話をしたという杉山洋一(大学時代飲み屋で悪口を叩いていた筆者と何という違いであろうか)が中心となって譜面を世界中探して蘇演に至ったという『歌垣』、これは息苦しくて気が遠くなるほどに「重い」音楽であった。コントラバスクラリネット、コントラファゴット、トロンボーン、打楽器によるこの世ならざる低音のうねりで始まり、そこからピアノを中心に30人の楽器が延々ぐねぐねと渦を巻き、あるいは突風を吹かせる。音の動きはある。だが、旋律や和声やリズムといったものの安らぎが拒絶されたまま、会場がその音に飲み込まれた。その中にあってお鈴(寺にあるハンドベルのような楽器)を3人の打楽器奏者が文字通り「鳴らしまくる」その不吉さにおののかない人間がいようか。これは此岸の音楽ではなく、また彼岸の音楽でもなく、「死そのもの」の音楽である。
終演後、へうへうとした風情の高橋悠治に会場中から盛大な拍手が巻き起こった。なんという音楽家であろうか。また、若い演奏家たちがここに集ったことも実に希望を持たせてくれた。彼らは蛮行と嘲笑渦巻く現代において「音楽のあるべき姿」を示してくれたのである。
(*)その詩は間違いなく2人の母校たる高校での世界史資料集に載っていた「神よ、そなたは我が酒杯を砕き、愉しみの扉を閉ざして、紅の酒を地にこぼした、酔っているのか、おお神よ。右手に教典、左手に酒杯、ときには如法、ときには不如法、我らは紺碧の大空のもと、まったくの異教徒でなし、回教徒でなし」であるが(今回の引用元はwikipedia)、しかし、その後読んだ岩波文庫『ルバイヤート』にはこの詩は見つからず、ネット上でもこの詩の引用は多数見つかるが、筆者には原出典は不明のままである。
(**)本演奏会の直前、2018年12月24日、JTアートホールアフィニスでの「女声合唱団 暁」(指揮:西川竜太)による高橋悠治『マナンガリ』(1973)『クリマトーガニ』(1979)もまた筆者の「昔の」彼のイメージを刷新するものであったことは記しておきたい。
(2019/1/15)