特別寄稿|ウイーンから見るヨーロッパ|渡辺博史 

ウイーンから見るヨーロッパ

text & photos by 渡辺博史 (Hiroshi Watanabe)

シュテファン大聖堂

昨年11月にウイーンを訪れた。ほぼ2年ぶりの訪問であったが、この古都は、改修後のシュテファン大聖堂の緑色の屋根も含めた綺麗な全容を青空に映えさせていた。カフェに座って、市街を環状に囲むリンクの人の行き来を眺めながら、いくつか思ったことがある。

【中欧、東欧の二つの王家】
翻って見ると、19世紀の中欧、東欧では、二つの王家が勢力を競っていた。ここウイーンを本拠とするオーストリアのハプスブルグ家とプロシアのホーエンツォレルン家である。いずれもドイツ語という同一言語を話しているが、そこには訛りの差があり、そしてそれ以上に両王家の統治構造には大きな違いがあったとされている。
ご承知のように、ドイツ地域は永きにわたりおよそ300の小さな領邦国家に分裂していたが、19世紀前半における産業発展の中で、小国分立の不便さが顕著になり、統合への動きが強まった。本来ならば、長い間ドイツ地域を統べる神聖ローマ帝国皇帝の地位を独占してきたハプスブルグ家がその統合へのリーダーシップをとるべきであったが、当時ハプスブルグ家オーストリアは版図を東に広げて、ハンガリーやポーランド、そしてバルカン諸国を統治していた。それらの非ドイツ民族を切り離したくなかったハプスブルグ家と他の諸侯の間で、統一後の国家構造における他民族の処遇を巡って論議が展開された。その結果、ドイツ民族のみの統一を求める勢力が大勢を占め、他民族とのしがらみのないホーエンツオレルン家のプロシアが、本来ポーランド地域から勃興してきた国であるにもかかわらず、ドイツ統一の盟主候補に浮かび上がってきた。どちらにせよ、ドイツ地域の中核ではなく、北東及び南東のいわば辺境にあった二王家の対立という変則的な構図がその後のこの地域の政治的変遷に大きな影響を与えた。
プロシアはその後西に進んで全ドイツを統一し、そこに極めて中央集権的な帝国を打ち建てて行った。そして、戦後の帝国崩壊につながる第一次世界大戦への突入、そして短く不安定なワイマール共和国時代を過ぎてナチスの支配を招き、第二次世界大戦を招来した結果、壊滅的な敗戦を迎えた。その歴史的な動きをみると、内部においては極めてきつい統率を行うとともにそれへの服従を求め、また周辺に存在しその後勢力下に取り込まれていった諸民族に対しても強い姿勢を示してきたが、その動きの態様はその統治構造の成立経緯から来ているという分析が多くなされている。

【ハプスブルグ家オーストリアの動き】

王宮

一方のハプスブルグ家は、世界大戦ではドイツに組みすることもあったが、その統治構造は相対的に緩やかであり、自らの勢力の衰退による支配力の低下が主たる要因であったにしても、帝国の傘の下にあった諸民族へも比較的穏やかな対応を行い、例えば、ハンガリーとの間では、君主は一人であっても国としては同格となる二つの国の「同君連合」を結成した。そして、第一次世界大戦後には君主制を廃し、共和国となり(昨年2018年は、共和国建国100周年であった)、第二次大戦後には、永世中立を標榜する人口900万人の中規模国となっている。ちなみに、ハンガリーとの同君連合を形成したのは明治維新の時期に重なる1867年であり、1869年には日本との国交を樹立している。また、同国の永世中立宣言(1955年)を世界で最初に承認したのは日本であるというご縁を持つ。
日本との関係を少し続ければ、欧州統合への一つの原動力となった「汎ヨーロッパ主義」の主導者の一人は、東京生まれの貴族であるリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーである。駐日大使であった父の任期終了後は、彼はオーストリアに帰還し、更に第一次大戦後はチェコスロバキアに居住するなど、彼の生活自体に、国境を超える考え方の形成の素地が見られる。戦間期において、既にその後の米ソという東西の対立によるヨーロッパの分断を警告していた彼は、第二次大戦後の西側諸国の統合の必要性を説いていた。

【ヨーロッパ人という意識】
国民国家の概念が強いと思われがちなヨーロッパではあるが、その国境意識は日本のような国土形成の国の者にはなかなか実感しがたいものがある。例えば「私は、大公国に生まれ、その後王国に居住した。そして別の帝国で生活した後、今は共和国に住んでいる。」と述べた者に「随分、転居をされたのですね?」と尋ねたのに対する回答は「いいえ、私は一度も引っ越しをしたことはありません。」であった。そして、今ヨーロッパ五大国に数えられるドイツ、イタリアの国土統一の時期はまさに日本の明治維新と同時期であり、更にスペインの統一は20世紀の話である。
そういう状況の下、第二次大戦の惨禍を目の当たりにしたヨーロッパの人たちが、不戦に向けての統合、協調に踏み切る中で、このハプスブルグ王家の緩やかな「統合」体制を一つの参考としていったのである。
ヨーロッパに居住する人たちが、自らを「ヨーロッパ人」という一つの人的塊であると認識するのは、外敵の侵入にさらされた時だけである、と良く言われる。東から襲来したモンゴルしかり、南から侵攻したオスマン・トルコしかりである。それらの脅威へ対抗するヨーロッパの最前線の橋頭保となったのがウイーンであったということも、この国の意識形成に影響を与え、またヨーロッパ全域の人たちがこの地域の将来像を描こうとしたときにこの国の姿を思い浮かべるのも不思議ではない。

【ヨーロッパの直面する課題】

アンカー時計

その後のヨーロッパ統合の過程を詳述するのは本稿の趣旨では無いが、当初6カ国でスタートした動きが、今や28か国を抱合する欧州連合(EU)となり、通貨ユーロへの転換もこのうち19か国で実施された。今世紀に入り、2005年、2006年には、ヨーロッパは好況を享受し、通貨ユーロもドルと並んで基軸通貨になるに相応しいとまで言われる状態になった。
しかし、2008年以降の10年はヨーロッパにとっての茨の道のりとなった。文明淵源の地、ギリシャにおける国家的粉飾決算は、大西洋の向こうで発生したリーマン・ショック以上に各国の財政、金融を痛めつけた。また、もとから富の源泉として、永い間収奪の対象地として来た中東との関わり合いは、多数の難民の流入という新しい局面に至り、ヨーロッパ域内の大規模移民と共に、極めて深刻な社会問題をもたらした。今世紀初頭にドイツがトルコ人労働者の処遇を誤ったことをはじめとして、半分はヨーロッパが種を蒔いた中東の混乱に起因する大規模な人的移動への対応策が取れないまま、各国において移民・難民排斥を標榜する政治グループの伸長を招いた。そのような混乱の中で、二つの大戦への反省から「皆と同じ普通のヨーロッパ国民」となるべく務めてきたドイツがまたヨーロッパ全域の命運を握るポジションにつかざるを得なかったことはある意味で歴史の皮肉である。しかし、そのドイツの優越的地位も永遠に保つものではなかった。
今は、多少落ち着きを取り戻してはいるが、アドリア海、エーゲ海から上陸した難民の北進ルートとなったブダペスト、ウイーンの駅頭は多くの難民でごった返した。その北進の目的地であるドイツにおいても、難民への「過大な」配慮に辟易した国民が長年に渡りドイツそしてヨーロッパ全域を率いてきたメルケル首相についに引導を渡した。そして、フランスは所得階層間のアンバランスに悩み、イタリア、スペインは地域的不均衡に起因する分裂の懸念にさらされている。そして、イギリスはヨーロッパの協和組織から離脱しようとしている。
今や、海の向こうのアメリカが同盟者というよりは、脅威の源泉となりつつあるときには、本来ヨーロッパは一層の域内集中・統合に務めなければいけないが、事実はそう動いていない。音楽家の3B(といっても組み合わせには諸説あるようだが、ここウイーンでは、バッハ、ベートーベン、ブルックナーの3名)にちなんでという訳ではないが、ヨーロッパの大国を統べる3人のM(メルケル、マクロン、メイ)のそれぞれがこのように極めて難しい課題に直面している。

【求心力の復元可能性】
第二次大戦以降、統合に向けて求心力を高めてきたヨーロッパは今や遠心力に振り回される状態となっているが、五大国(独、仏、英、伊、西)の動向のみに振り回されてはいけない。多国間協調主義(Multilateralism)を忌避するアメリカとどうやって対峙していくかということは、ここ数年の世界の課題であるが、そのためにも中規模国が如何に協調、連携し、大国のいくつかから生じる大波に対応していくかは喫緊の課題である。特に、唯我独尊という点では共通するが、峠を過ぎたチャンピオンのアメリカと足腰に脆弱さを有するチャレンジャーの中国との間の覇権争いは、かなり長期化していく惧れが強い。

Cafe Central

また、国境をまたがる人の動きを全部止めるということが出来ない以上、その移動から生じる負の影響をもともと居住していた国民にとって小さくする施策が必要であったが、ほとんどの政府はこれをないがしろにしてきた。これらの人的流入の影響を大きく受ける、あるいは受けるものと信じられている未熟練労働者、低所得グループが持ちかねない懸念、不安を緩和する政策、特に有効な所得分配政策の実施が必要であったが、残念ながらこれは為されなかった。この20年の政治的無策に反省を加え、より均衡的な所得・資産分配状況を構築していくことがヨーロッパのみならず世界全体に求められている。
その意味で、改めて、緩やかな統合、他民族との協和、そして寛容、というヨーロッパそして世界が進まねばならない途の姿の模索が不可欠であり、それに向けての動きをウイーン発で出来ないかという印象を持った旅となった。

(2019/1/15)

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渡辺博史(Hiroshi Watanabe)
公益財団法人国際通貨研究所理事長
1972年東京大学法学部卒 1975年米国ブラウン大学経済学修士
2007年まで財務省(旧大蔵省)に勤務 国債、税制、国際金融の各政策立案に携わる
退官後、一橋大学大学院商学研究科教授、国際協力銀行総裁を経て2016年に現職
主著「新利子課税制度詳解」、「ミステリで知る世界120カ国」、「新ヨーロッパを読む」
訳書「最新アメリカ金融入門」