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カデンツァ|批評は「いる(居る)」|丘山万里子

批評は「いる(居る)」

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by Naoko Nagasawa/写真提供:日本音楽芸術マネジメント学会

謹賀新年。
年頭にあたっての所感など。
昨年末、日本音楽芸術マネジメント学会でシンポジウム「音楽批評の今日的役割」が行われたので、それに触れつつ述べてみる。

このシンポジウム、モデレーターの中村孝義氏(大阪音楽大学理事長)による<趣旨>に、活字メディア(紙媒体)からネットへ情報発信ツールが大きく変化している現況において、音楽批評が従来の役割を終え不要のものとなりつつあるのではないか、との問いが表明されている。さて、どんな論議になるか、本誌『Message』で「批評はいらない のだろうか」と言っている私としては、大いに興味をそそられ、出かけたのだ。

シンポジウム出席者は入山功一氏(AMATI代表)、東条碩夫氏(音楽評論家)、平野昭氏(音楽評論家)、松本良一氏(読売新聞文化部、以下敬称略)。東条はネットで連日コンサート評を発信する評論家、平野は毎日新聞で演奏会評を執筆の音楽学者だ。
参加者はマネジメント学会の方々であるので、空気としては「制作サイドvs批評」の図式、それゆえ、ということでもなかろうが、平野はまず「自分は音楽研究者で評論家ではない。」東条は「いわゆる評論家はふんぞり返った先生で、その実半分情報屋、半分宣伝屋。これに反発、音楽を“権威”から解放したいと思うようになり、今に至る。」(石原裕次郎の映画に出てきた音楽評論家がそう描かれていたとか)と言い、受けた。
かつて音楽学者角倉一朗が「私は30歳で批評というヤクザな稼業から足を洗い学問に専念しました。」と言ったが、評論家という呼称に異を唱えた二人はそれぞれに「ヤクザな稼業」的イメージへの違和感があるのだろう。
ここには、評価や価値判断はその道の「権威」によって下される、という暗黙の了解と共に、「権威」の実体への疑義も含まれていよう。
2時間のシンポジウムを聞きながら考えたことは以下。

その道の「権威」、つまり評者の資格(どういう人を評者にするか)については、松本が「見識と経験」をあげた。専門性を重視するなら演奏家や作曲家に書かせてはどうか、との中村の問いに答えて。シューマンから現在に至るまで、書く人は居たし今もいるが、文章力(読ませる力)は必須と私は考える。作家が売文業であるように、評論家もそうだ、という意味で。これをクリアの上で、さて見識とは、経験とは何だ?まずは言葉の意味を。
と、『広辞苑』『大言海』『日本国語大辞典』を繰ると、『日本国語大辞典』が異常に面白い。いくつか示される引用が実にユニークなのだ。
まず「権威」。定義 ①下位の者を強制し服従させる威力・権勢。②専門の知識・技術についてその方面で最高であると一般に認められていること。引用)大仏次郎『帰郷』「本は権威ある書店から出されなければ駄目なのだ」(ちなみにこの大辞典は小学館発行)笑える。他辞典と読み合わせると、「権威」は人に恐れを与えるのが肝らしい。
「見識」。①物事を正しく見通し、本質を弁別する優れた判断力やしっかりした考え。広く基本的なものの見方。②説いていることがら、判断。③気位。みえ。引用)夏目漱石『吾輩は猫である』「其位な見識を有して居る吾輩を矢張り一般猫児の毛の生へたもの位に思って」。仮名垣魯文『安愚楽鍋』「けんしきははなばしらとともにたかく」
「経験」。①実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。それによって得た知識や技能。②実験 ③何らかの原因によって感覚に引き起こされた主観的状態や意識。引用)山田美妙『武蔵野』「年を取ッた方は中中経験に誇る体が有ッて、若いのはすこし謹深い様に見えた」
思うにこの大辞典、ほとんど批評の域だ。

ともあれ、「権威」には一般人に「お説ごもっとも」と頭を下げさせるだけの専門知識・技術が必要。これを保つには、本質を見抜く洞察力、正しい判断力、広い視野に加え、高い気位(!)を備えた「見識」と、豊富な実地見聞に裏打ちされた知識や習得された技能の「経験」を有さねばならぬ。ということだ。
従来の新聞・雑誌(紙媒体)の評者はこの基準により選ばれているのであろう。音楽学者が多く評者をつとめるのは、専門知識という要件を満たしているからだが、専門知識と「見識」は別だし、生きた長さと「経験」の多寡、深さは比例しない。
では、何を以って? 「人の演奏や作品聴いて御託を並べる音楽評論家って何よ。」「評者自身の見解を知りたいのに、これじゃそこらのレポート記事と変わらんじゃん。」という巷の二種の疑念はここらから発するのであろうし、前述の二人もまたその胡散臭さを知るゆえにそう呼ばれたくないのだと推察する。

さて、ネット社会で誰もが評論家の時代が到来して久しい。
そのメリット、デメリットについて、ネット発信暦の長い東条は「速報性」「自由」を挙げた。「従来の媒体の頻度(月1回とか)では書き足りないという執筆欲望を満たすに、ブログが最適、印象の薄れぬうち速攻書ける、字数制限もなければ管理もされない、好きなことを好きなとき好きなように書く自由、それが魅力」。
そう、権威ある媒体はその権威を保つ、もしくは社会的責任を果たすため、管理する(評論家は被雇用者で、雇用者が気に入らなければ切られ、その上には広告主の目が光る)。
さらに、「相互コミュニケーションの喜び」「書けば即応のコメントや、いいね、が来る。炎上を恐れる人もいるが、読者層の区分け(2チャンネル系とか)はできている。ヴィヴィッドな手応えは、紙媒体では得られぬ喜びで、書くモチベーションにもつながる」。
一方で、「無責任な垂れ流し(匿名性)により信用度は低く、良く見積もっても情報程度」とも指摘した。
が、紙媒体の権威とネットの大衆性の距離は縮まっていると氏は言う。

私はカデンツァ『批評の倫理』(2018/10/15号)で両者の住み分けを言ったが、紙の評者がネット商業サイトに呼び込まれている昨今、確かに執筆媒体の境界は失せてゆくだろう。だが、お説ごもっとも権威支持派と、フォロアー数を誇るブロガー支持派はそれぞれ別途に存続混在、活用されると考える。
中村が批評の不要を問うのは、とどのつまり権威の不要でもあり、このことは、入山の最後の言葉「批評が不要になるのが成熟した社会で、それぞれが自分の価値観を持つことが望ましい」につながる。
事後の批評より、事前の告知(広告)に徹すればそれで良い、自己判断力を持つ成熟した聴衆に材料を示せば十分。
批評の機能した啓蒙・教養の時代は終わり、「クラシックの上から目線」(カデンツァ2018/2/15号)も消失、それこそがクラシックの幸福!となるかどうか。

確かに、現代は情報社会。新聞の批評欄は激減し、情報提供が大勢を占めつつある。
が、だから批評はいらない、とは思わない(というのが、現段階での私の実感)。
本誌は創刊3年を過ぎただけの、権威とは程遠い新興メディアだ。
ネットの特性のうち執筆の「自由」は、皆さまのご協力により確保している。署名原稿と執筆者プロフィルを記載、「責任」の所在は明記。最終的な誌面「管理」は編集長である私だが、文章上の瑕疵のチェックにとどまる。無責任な垂れ流しと低レヴェルの放言は、各執筆者が自戒している。
そういう文章を掲載し続けて最近感じるのは、批評も情報も(本誌はすべての記事に批評の眼が働いている)多彩なコラムも、「読まれている」という手応え。
それはアクセス解析データのこれまでの蓄積から次第に明らかになってきたことだ。
読者は、事前情報も事後評も両方うまく組み合わせ、摂取している。
例えばTV放映後にそのアーティストに関する評、記事(バックステージ、五線紙のパンセなど)の閲覧数が急増する。過去を遡り読むという流れで、映像を見て、「この人はどういう評価なんだろう」と知ろうとする。他者の評価や見解への興味が、明らかに働いているのだ。
あるいは、興味あるアーティストの公演の2、3ヶ月くらい前から、過去の評、記事の閲覧が増加する(チケット買おうか買うまいか、人の評価を参考に、だろうか)。
つまり、事前も事後も、批評(や記事、コラム)はずっと読み続けられ、そのように読む人が「居る」ということは、批評も「居ていい」のだ、と私は理解する。
読む人が「居て」くださるのだから、私たちもそこに「居たい、居よう」。
と言って、数値から浮かび上がる「読者のニーズ」にしたがって誌面作り、というのは少し違うかな、と思う。先ほど売文と書いたが、本誌は商業誌でも業界誌でもないゆえ(創刊時、システムデザイナーに、これは何を売るんですか、と聞かれ絶句、1日考えた挙句「良識」とした・・・)、数値にやきもきせずに済む。
とにかくちょっとずつ動こうと、速報性はツイッターで補い(昨年8月始動だが)、じっくり型は月報で。さらにがっつり歯ごたえある「評論」枠も昨年末から設けた。
点でなく線。「断片」とその寄せ集めでなく、包括的な「思惟」の流動、力動。長いものは読まれないという昨今、むしろ「逆光」(逆行でも脚光でもない)の中に何かを映し出せれば。
生命(いのち)の自己複製システム、 DNAの美しい2重螺旋構造のように、それらが「思惟」を形成し続ける、それを「書く」ことで掘り下げ、豊かにできたら。
それが今、本誌の描くイメージだ。
ただ、思惟を生むに必要な「他」(読者)との自在な「相互コミュニケーション」は現況ではできていない。今後、検討を進めて行きたい。

とりあえず、批評は「いる(居る)」。
フィギュアスケートも、跳んだ高さだの回転だの全て数値やラインで可視化され評価が決まるご時世、いずれAIがその精密な「審美眼」を持ち、この演奏、この作品は何点です、あなたの好みやご希望に沿う公演はこちらです、と冷静に判定、提案してゆくであろうから、批評の命など、儚いものさ。
紙だネットだ、権威だポピュラリティだ、学者だ愛好家だ、なんて区別に目くじら立てず、何が大事なのかだけを凝視めていたい。
再び、言おう。「批評は 呼びかけ」。そして「問いかけ」。
一人一人の「いのち」の言葉を、響かせあうことだけを本誌は願う。

批評家育成について東条が「いいものを書けば、その背を見て人は育つ」。
その通り。シンポジウム出席者たちが口々に吉田秀和からの影響を語ったように。
紙だろうがネットだろうが、立て「とりどりの背」!
「演奏家は命を賭けている」(だのに評論家は、的ニュアンス)との発言もあったが、これは作曲家からも良く聞く言葉。
私は都度、答えている。
「こっちだって命がけ。」
ステージは一期一会、繰り返しなどない。
全身全霊で向き合ってます。
全身全霊で書いてます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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日本音楽芸術マネジメント学会 第11回冬の研究大会
2018/12/16@昭和音楽大学 南校舎
http://www.jasmam.org/activities/kenkyutaikai11
(朝から晩まで内外20の研究報告&現場レポート、2つのシンポジウムという内容の濃い大会で部外者も参加費を払えば見聞可能)

(2019/1/15)