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〈アンドレアス・シュタイアー プロジェクト10〉 アンドレアス・シュタイアー|大河内文恵

〈アンドレアス・シュタイアー プロジェクト10〉
アンドレアス・シュタイアー すべての全音と半音をとおして~バッハと先駆者たち~

2018年12月18日 トッパンホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane hayashi)

<演奏>
アンドレアス・シュタイアー(チェンバロ)

<曲目>
すべての全音と半音をとおして~バッハと先駆者たち~

ジョン・ブル:ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ

幻想様式
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第7番 変ホ長調 BWV852
ベーム:前奏曲、フーガと後奏曲 ト短調
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第21番 変ロ長調 BWV866

“イタリア風に…”
ヴィヴァルディ(J.S.バッハ編):協奏曲 ト短調 BWV975/RV316より〈ジーグ〉
ヴィヴァルディ(J.S.バッハ編):協奏曲 ト長調 BWV973/RV299より〈ラルゴ〉
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 第4番 嬰ハ短調 BWV873

半音階的幻想
スウェーリンク:半音階的幻想曲 SwWV258
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 第20番 イ短調 BWV889

~休憩~

“フランス様式で…”
クープラン:クラヴサン曲集第2巻 第8組曲より〈女流画家〉〈ガヴォット〉
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 第13番 嬰ヘ長調 BWV882

“その他のギャラントな音楽も…”
W.F.バッハ:12のポロネーズより 第9曲ヘ長調/第10曲へ短調
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻 第12番 ヘ短調 BWV881

死を思え(メメント・モリ)
フローベルガー:トッカータ ニ短調 FbWV102
フローベルガー:組曲第20番より《瞑想~来るべきわが死を想って》FbWV611a
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番 ロ短調 BWV869

 

何とも不可思議なプログラムである。バッハの平均律クラヴィーア曲集をコンサートで取り上げる際には、たとえ抜粋で演奏するにしても1か所にまとめて弾くのがふつうだと思うのだが、始めから終わりまで細切れに1曲ずつ弾いていくなんて、いったい何がしたいのだろう?とずっと考え続けながら聴いた。

小さなまとまりごとに付けられた示唆的なタイトル。『平均律』と一括りにされがちな各曲の特徴をこのようなキーワードで分けてみせることによって、その広がりを示すということなのか?

「平均律」と他の作曲家による似た作風の作品を並べて聴いていくと、“イタリア風に…”あたりで、やっぱりバッハはバッハだなぁと感じる。とくにフーガはどの曲も「バッハ」印がしっかり押されている。どんなに多様であるといっても、バッハはやはりバッハということか?

つづく半音階的幻想はスウェーリンクの半音階幻想曲から始まる。あれ?このテーマ、すごくバッハっぽい!と疑似バッハ世界を堪能して平均律第2巻20番が始まると、同じ半音階の下行パッセージを使いつつも、単純に下がっていくだけでなく十字架を連想させる鉤型になるなど進化しているのがわかる。バッハはそれまでの手法を継承しつつも、それをさらに洗練させたことに気づかせたいのか?

“フランス様式で…”ではF. クープランの2曲。いかにもフランス・バロック的な装飾で埋め尽くされた曲なのだが、シュタイアーが弾くとなんだかかっちりし過ぎてフランス音楽に聴こえない。ドイツ人だとこのあたりが限界なのかと思いつつ、耳で補正しながら聴く。そこにバッハが続くと、あらまぁぱっきりくっきり、そこはバッハの世界。やはりさっきのは相対的にフランス的だったのだと悟る。プログラムノートには「トリルなどに宮廷風の絢爛さ」と書かれているが、こうやって比較すると、いくらトリルをつけてもバッハはバッハだなと思い知らされる。そうすると、クープランのあの演奏は、フランスらしさをそれほど強調しなくても両者はここまで違うのだと示すためのシュタイアーの戦略だったのかと深読みしたくなる。バッハはやはりバッハなのか?

“その他のギャラントな音楽も…”で演奏されたフリーデマン・バッハのポロネーズ2曲はこの曲集全体に言えることだが、非常に耳に残る印象的なもの。これに続く『平均律』も明快。そして、この明快さこそが、最後の死を思え(メメント・モリ)への密かな序章であることが後にわかる。

フローベルガーの2曲はいずれも、旋律が迷走していてどっちに向かっているのかわからなくなる。だが、そのわからなさが非常に心地よく、まさに「瞑想」の世界に誘い込まれていく。『平均律』第1巻第24番のフーガも迷走する長い主題に導かれて、何を目指せばいいのか、先の見えない不安を抱えつつ進む。

そうか、このプログラムは様々な作品を挟むことによって『平均律』の多様性を示すことでもなければ、似たような作品と並べてバッハの独自性を焙り出すことでもなく、壮大な音楽のパッチワークを作ることにあったのか?と、事ここに至ってようやく気づく。バッハが花柄だとすれば、すこしずつ配色や花の形の違う花柄に、それに調和する無地やストライプや水玉の布地を組み合わせていくことによって、1つ1つの布地だけでは出せない複雑かつ奥深い世界を作り出す。

このパッチワークをみて、バッハの魅力を再発見するもよし、他にお気に入りの作曲家を見つけるもよし、ある意味、聴き手が試されるプログラムと言ってもよいかもしれない。いや、こうしてあれこれ考えてしまうこと自体、すでにシュタイアーの術中に嵌まっている証であろう。ここまで練られ考え抜かれたプログラムだったとは。そしてそれは、これだけ多様な音楽を弾きこなさなければならないという意味で、弾き手も試されるプログラムでもあったはずだ。シュタイアーならではの世界を堪能した。アンコールはもういらない。

(2019/1/15)