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THE TRIO|能登原由美

THE TRIO

2018年11月30日
豊中市立文化芸術センター 大ホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)

〈出演〉
クラリネット|アンドレアス・オッテンザマー
ヴァイオリン|郷古廉
ピアノ|ホセ・ガヤルド

〈曲目〉
ドビュッシー:クラリネットのための第1狂詩曲L116|オッテンザマー、ガヤルド
ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタL140|郷古、ガヤルド
プーランク:城への招待FP138|オッテンザマー、郷古、ガヤルド
〜休憩〜
バルトーク:ルーマニア民族舞曲Sz56|郷古、ガヤルド
ブラームス:《6つの小品》Op. 118より第2番〈間奏曲〉イ長調|オッテンザマー、ガヤルド
ブラームス:《5つの歌曲》Op. 105より第2曲〈歌のしらべのように〉|オッテンザマー、ガヤルド
レオ・ヴェイネル:2つの楽章|オッテンザマー、ガヤルド
バルトーク:コントラスツSz111|オッテンザマー、郷古、ガヤルド
〜アンコール〜
ショスタコーヴィチ:《6つの小品》より〈プレリュード〉

 

管楽器はアスリートだ。こういうといかにも技術だけが全てと言うような、何かネガティブなニュアンスに聞こえるかもしれないが、そうではない。何よりもまずは体が大前提、という意味においてである。今度は逆に当たり前のことのように思われるかもしれないが、オッテンザマーの演奏を聴いてつくづく実感した。若干21歳でベルリン・フィルの首席クラリネット奏者に抜擢されたこの若者の音、いや敢えて言えば「空気」を操る術。

今、「若さ」を強調したが、アスリートであるだけにやはり年齢がその術に影響を与えることは免れ得ない。体全体が音の生成器官になるわけだから、楽器の一部となる体の変化は当然ながら音に出る。具体的にいえば、呼吸器などを統べる筋肉や骨格といったところだろう。その影響は、弦楽器や鍵盤楽器以上であるに違いない。加齢とともに音質が変化してしまうのも、管楽器奏者が避けては通れない道だ。もちろん、その変化は必ずしも否定的なものばかりではない。けれども、オッテンザマーのその術は、「今」だからこそなし得るものであったに違いない。

冒頭のドビュッシー《クラリネットのための第1狂詩曲》で、それをまざまざと見せつけられた。まるで空気が音に染められていく。あるいは音が空気へと揮発していく。空気から音へ、音から空気へ。空気と音、両者をめぐる往還。そこには空気と色のあわいを捉えた印象派の絵画を彷彿とさせるものがあった。自らを「印象派」と称することを嫌ったというドビュッシーだが、やはりその音楽の特性には通じるものがあると思う。ただし、初めに戻って言えば、そのような演奏を可能にしたのは空気を自在に操るオッテンザマーの技があってのことだけれども。

続いて、その同じドビュッシーを郷古のヴァイオリンが奏した。曲は《ヴァイオリン・ソナタ》。先のオッテンザマーとは一転、彼の音楽はあくまで「音」の上にある。つまり、弓の圧力やスピード、ヴィブラートのかけ方など、弦楽器ならではの発音構造を使って様々な音のニュアンスを繰り出す。とりわけ郷古のこのドビュッシーは、実に鮮やかな輪郭線で描かれていた。旋律線やリズム、アーティキュレーションやダイナミクスの歯切れの良さ。それによって、様々な色や形を作り出していたのである。

オッテンザマーとのこの違い、それは、空気を使って音を出す管楽器との違いなのだろうか。恐らくそれだけではないだろう。というのも、その後で演奏されたプーランク《城への招待》では逆に、郷古は空気を含んだようなふわりとした音色を何度も繰り出してきたのだ。つまり、先のドビュッシーの描き方は敢えて彼が選んだものというほかない。その意図については、ここではわからなかったのだが。

プログラムの後半は、オッテンザマー、郷古、それぞれのソロとピアノによる曲目。そして最後に、バルトーク《コントラスツ》で3名によるアンサンブル。まさにクラリネット、ヴァイオリン、ピアノという今日の3つの楽器のために作曲されたものだ。文字通り、「コントラスト」が主題である。確かに、各楽器の特性の違いも追求されていたが、3つの楽章の相互の違いや技巧の饗宴といった華やかさに押されて、冒頭のドビュッシーほどにはその違いは浮かび上がってこなかった。

さて、両者を支えるガヤルドのピアノ、2人の人気アーティストの陰に隠れて一見すると目立たないのだが、その力は決して侮れない。あるいは、彼のピアノなくしては両者の違いはそれほど明らかにならなかったのかもしれない。というのも、2人のソロ奏者との間でもっとも「空気を読む」演奏を行なっていたのは、実は彼だったのではないか。つまり、空気が音になる瞬間を決して見逃さない。また、音と音の間(ま)をはかるタイミングを決して逸しない。それどころか、打鍵の間合いや強度、色合い、ニュアンスを巧みに操作しながら、音楽の流れ、空気を微妙に変えていきさえするのだ。体全体が共鳴体となるクラリネットやヴァイオリンとは違い、ピアノの場合、楽器に触れるのはわずかに指先のみだけれども、体全体で空気を捉え、操る術は全く変わらないことを示してくれた。

3つの楽器、3人の奏者。まさにTRIOという名前の通りだ。そればかりか、音楽には楽器、奏者、作品という3つの視点が伴うことも感じさせる充実した公演であった。

(2018/12/15)