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パリ・東京雑感|多文化共生の罠 移民をどう迎える?|松浦茂長

多文化共生の罠 移民をどう迎える?

text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

パリの友人に「日本は人手不足だから外国人にもっと来て貰うらしい。どう思う?」と聞いたら、言下に「絶対止めるべきだ。」と断言した。彼は極右ルペンの支持者ではないし、保守でさえない。元ヘリコプター・パイロットでアフリカもアジアも大好き、中国人のパートナーと暮らす同性愛者だから、マイノリティーに優しい男なのに、移民に国を開くのには断固反対。こう言う意見は彼ばかりではない。左翼で異文化に触れるのが好きな友人達も、移民問題となると慎重だ。理想としてはあらゆる文化に開かれたフランスであって欲しいと考えているに違いないが、現実は厳しい。理想を裏切らなくてはならないテーマなので、僕の友人たちにとって、移民や難民について訊ねられるのはつらいのだ。

カラフルなパリの見本市

2015年、シリアなどから100万人を越える難民がヨーロッパに来た頃を思い出す。フランス人の旧友との会話が難民問題に触れると、急に彼の口が重くなり、苦しそうな表情になった。良心がうずくのだ。シリア難民を無制限に受け入れると約束したメルケル演説はそんな重苦しい空気を一瞬吹き払ってくれた。『ルモンド』紙の「アンゲラ・メルケル、ヨーロッパの誇り」と題する社説は、ほっとしたフランス人の気持ちを正直に表していたし、ラジオからは「19世紀にフィヒテがドイツ人によるドイツ語の国を唱え、わがルナンは言語や民族を越えた国を唱えたが、いまはフランスがフィヒテの国へ、ドイツがルナンの国へと逆転した」と嘆く声が聞こえた。70年の贖罪によってドイツは他者の痛みに最も敏感な国に生まれ変わり、倫理性の高さによってヨーロッパをリードした。人権の祖国を自負するフランスにとって不面目な敗北だった。
ところが、ヨーロッパの良心を体現したメルケル首相は、難民に優しすぎたため、あっという間に力を失った。2015年まで押しも押されもしないEUリーダーだったのが、いまはなかば引退した政治家のような影の薄さだ。逆に、移民敵視を叫ぶ政治家は、選挙民の喝采を浴び、チェコ、ポーランド、ハンガリー、イタリアは政府が移民排斥政策をとっている。なぜここまで来てしまったのだろう。

メーデーに中国語

フジテレビのパリ支局に勤務していたとき、ビル清掃のおじさんと仲良しになった。ヌルディーンさんというチュニジア人で、朝4時頃やってきて、9時半までに1階から8階のオフィスを綺麗にする。難しい『ルモンド』紙を読むかと思うと、処分した日本の週刊誌をなぜか大事に保存していた。イスラムについて聞くと「ジハード(聖戦)とは自分の心の悪と戦うことです」とか「クリスマスにはイスラム教徒が教会に食べ物を持って行くし、ラマダン明けには教会の方が私たちの所に食べ物を持ってきてくれます。庶民の町では、教会とモスクは隣人です」と教えてくれた。傑作なのは「息子は公立学校にやりません。あんな所に行ったら親を尊敬しなくなる。カトリックの学校に入れました」というのだ。わが家の引っ越しを頼んだら、レンタルの小型トラックに、2人の息子とモロッコ人の若者を乗せてやって来た。もの静かで見るからに正直そうな人柄だから、いろんな仕事を頼まれるらしい。夜明け前から夜まで働くのは、清掃会社を立ち上げる資金作りのためだそうだ。
ヌルディーンさんのようにハードワークをいとわない外国人がいるおかげで、フランスの社会・経済は動いている。寝室の窓を防音二重窓に取り替えたときの職人さん(アルゼンチン出身)も、働き者だった。仕事が終わったところで、居間の窓が閉まりにくくて困るからなんとかならないかと頼んだら、一人では持ち上がらない部厚い二重ガラスの窓だったので、土曜日に息子を連れてやって来た。力持ちの親父さんとは正反対のほっそりして頭の良さそうな青年。思わず「何のお仕事?」と聞いてしまった。お父さん、嬉しそうに「銀行員です」と言う。そして「水道の水漏れ、ペンキ、大工仕事何でもやりますよ」と、携帯の番号を残していった。夜も休日も働いて、息子を大学に通わせたのだろう。
振り返ってみるとわが家で働いてくれた職人さんは全員外国人だった。ペンキ塗りはペルー人とコロンビア人。朝8時前から仕事を始め、10日間の予定を9日で仕上げた。光ファイバーの配線はカリブ海出身のかわいい若者。水道・排水工事はアフリカ人の大男だ。

安倍総理は、「移民政策はとらない」と言う。働き手が足りない分野に限って、外国人を入れ、不景気になり人手が必要なくなれば帰ってもらう。だから移民ではない、と言う理屈だ。でもヨーロッパだってはじめは同じ考えだった。1950-60年代に労働力不足になり、外国人労働者を大いに優遇してリクルートした。70年代に不況になると労働移民はストップ。ところが、はじめ単身だった人たちも家庭を作り、フランスで子供が生まれればその子はフランス人だから、もう外国人扱いは出来ない。宗教と文化の違うフランス人が増え続けた。
日本も同じ事だろう。浜松の鈴木康友市長は記者会見で「出稼ぎのはずが外国人市民として長期滞在になった」と言っていた。1980年代後半、バブル景気で深刻な労働力不足になり、ブラジルの日系人たちが出稼ぎに来た。そして現在浜松市の外国人は23,000人。8割が永住・定住者だそうだ。

各地に「多文化共生」

移民とどう向き合うかをめぐって、二つの考え方がある。多文化主義multiculturalismと統合だ。多文化主義の方が寛容で進歩的な考え方に見えるし、日本語で<多文化共生>と訳せば、ユートピア的な響きになる。イギリスやオランダが多文化主義の代表で、たとえば、統合主義の代表フランスでは、イスラムの生徒が学校でベールを被るのは禁止されているけれど、ロンドンに着くと真っ先に入国審査や警備の職員がベールを被っているのに驚かされる。公務員が宗教の標を身につけるなんてフランスでは問題外だ。1979年にロンドンに赴任したとき、息子の通う公立小学校では朝礼で讃美歌・お祈りをしていたけれど、翌年校長が代わると多文化主義に切り替わり、新校長は「何の宗教を信じていますか?息子さんのために仏教の祭壇が必要ですか?」と物わかりの良いところを見せてくれた。
しかし、数年前メルケル首相が「多文化主義は失敗だった」と宣言したように、2000年代になってヨーロッパ各国は多文化主義から統合へ転換した。多文化主義という美しい看板を掲げながら、その裏に、移民をあくまでよそ者とみなす本音が隠れていたのかも知れない。ライデン大学のマリオン・プリュスコタ講師が立教大学で移民政策の歴史について講演し「今日では多文化主義は大方間違ったコンセプトだったと、捉えられています。多文化主義とは、最終的には母国へ帰還するのを促すために、移民は自分たちの言語と文化を保持すべきだとする考え方を表しています」と断じた。
そう言われてみれば、イギリスで暮らしたときは、いつも自分を外国人と意識していたのに比べ、フランスでは二流市民的疎外を感じないで済む。そもそも前政権の首相マニュエル・ヴァルスはスペイン出身だったし(故郷バルセロナ市長に転身中)、パリ市長イダルゴもスペイン人。閣僚には韓国、セネガルなど色とりどりの顔が混じっていた。<統合>をモットーとする以上、顔が黒くても黄色くてもフランス人なのだ。

では日本は移民(この語は自民党政治家にとって禁句)に対し、多文化主義で行くのか、それとも統合を目指すべきなのか。浜松市は「多文化共生」をうたい文句にしているものの、実際はきめ細かな統合支援を実行している。一人残らず学校に行けるようにと「不就学ゼロ作戦」。落ちこぼれが出ないようにと、学校にポルトガル語やタガログ語をしゃべれる学習支援者を配置……。
でも<統合>の結果、黒い肌も、白い肌も褐色の肌も日本人という意識にまで行き着けるだろうか?僕自身、八百屋で大きな体のアフリカ系の店員に完璧な日本語で話しかけられたりするとドギマギする。パリだったらどんな肌の相手でもびっくりしないのに。そう言えばテレビ局で同僚だったユダヤ系アメリカ人が嘆いていたっけ。「何十年日本で暮らしても外人扱いよ。『上手に箸で召し上がりますね』なんて褒められると嫌になっちゃう。」彼女はユダヤ人への偏見のない日本が大好きなのに。
日本人になるのがこんなに難しいとすると、<統合>は日本に向かないのかも知れない。ヨーロッパで多文化主義が失敗に終わったとしても、日本は多文化共生を突き進むしかないのだろうか。
日本国際交流センターの毛受敏浩氏は日本記者クラブで会見し、「ヨーロッパの移民問題は、実はイスラム問題であって、日本では深刻な事態にならないと思います。たとえば、小学校の図画の時間に肖像画の課題が与えられたとき、宗教的理由で肖像を描くのが無理なら手を描かせるとか、イスラムの女子は水泳出来ないと言うのなら他の課題を与えるとか、柔軟に対応しており、ヨーロッパのような問題は起こっていません。」と楽観的だった。もともと私たち日本人は、畳に坐ったり、ベッドに寝たり、箸とナイフを同時に使ったり、結婚式は教会、葬式は寺と使い分けたり、複数文化の雑居を実践しているのだから、多文化への免疫があるのかも知れない。それに何と言っても、地球上の諸国民の共生は、遠い昔から人類の夢だったのだし……。

(2018年12月1日)