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NHK交響楽団 第1899回 定期公演|藤原聡

NHK交響楽団 第1899回 定期公演

2018年11月25日 NHKホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影:11/24

<演奏>
NHK交響楽団
オルガン:鈴木優人(コープランド)
指揮:広上淳一
ゲスト・コンサートマスター:白井圭

<曲目>
バーバー:シェリーによる一場面の音楽 作品7
コープランド:オルガンと管弦楽のための交響曲
(鈴木優人のソロ・アンコール)
J.S.バッハ:シューブラーコラール集 第1曲『目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ』 BWV645
アイヴズ:交響曲第2番

 

広上淳一、1月に続いて2018年2度目のN響定期公演登場。1月はバーンスタイン作品2曲にショスタコーヴィチの交響曲『第5番』というプログラムであり、前者の演奏がバーンスタインに対する直接的なオマージュであることは言うまでもないが、後者もまた指揮者・バーンスタインの十八番であり、これも含めてコンサート全体としても広上の師匠で今年生誕100年という記念年であったこの稀有な音楽家へのオマージュとなっていた。そしてこの11月の定期公演でもまた背後にバーンスタインの影が見え隠れする。コープランドとバーンスタインは生涯を通しての親友で、バーンスタインはコープランド作品を生涯に渡って演奏した。アイヴズの交響曲『第2番』は他でもないバーンスタインが初演を行なった作品であり、アイヴズ作品ルネッサンスの立役者の1人でもあった(余談だが、バーンスタインがバイエルン放送響を指揮したアイヴズの交響曲『第2番』の映像では、ミュンヘンの聴衆を前にこの作品について熱弁をふるっている)。2018年もほぼ終わりかけた11月の定期公演でも広上は再度「レニー」へ思いを馳せる。

最初はバーバー。これは詩人シェリーの「鎖を解かれたプロメテウス」のとある箇所から着想を得た作品だという。それはプロメテウスの恋人で美の象徴であるエイシャが彼女を讃える天の声を耳にする場面なのだそう。バーバー作品で群を抜いて有名なのは言うまでもなく例の「アダージョ」だろうが、他のバーバー作品を幾つか耳にすれば気が付くと思うのだけれども、「アダージョ」ではバーバーのロマン主義的本性がモダニズム的なフィルターを通さずにかなり生のまま噴出しているようなところがあると感じるが、対してこの『シェリー~』はそのメロディラインから不協和音を含む和声から、いささか屈折してある種の突っ付きにくさ/渋さがあるところがちょっといい。とは言えその音楽は長いスパンで徐々にひたひたと盛り上がりを見せて行き、その超越的な恍惚感はちょっとブルックナーのアダージョ楽章を思わせるほど(とは言えブルックナーより冷めてはいるが)。広上はこの手の音楽で卓越したドラマティストぶりを遺憾なく披露、そこはバーンスタイン譲りの部分であろうか。このカタルシスは広上の音楽の特徴と思う。

2曲目は鈴木優人を迎えてのコープランド。実演で聴く機会は極めて稀な曲だと思うが、これが面白い。『エル・サロン・メヒコ』や『ロデオ』のコープランドとはまた違ったモダニティがあり、ちょっと『春の祭典』やら現代のミニマル・ミュージックを先取りしているような音響の客体化と断片化がある。第2楽章のポリリズムも楽しいし、終楽章のショスタコーヴィチのようないびつな音楽は一般的なコープランドのイメージを崩すに十分。ここでも広上とN響は十全な演奏を展開したが、鈴木優人の冷静なオルガンがまた聴き物(このドライさがよい。もとよりそういう曲だが)。客席から見て上手の壁面に鎮座するNHKホールのオルガンの音をここまで大量にちゃんと聴いたのは初めてだが、ホール自体の音響のためもあるだろう、良くも悪くもその音は極めてクリアに響き、パイプオルガン的な雰囲気(?)ゼロ。だからこそ、このコープランド作品には逆に合う。オケとオルガンの音の絡み合いやリズム的ギミックが白日の下に晒されるからだ(これがB定期のサントリーホールであったらこれほど面白く聴こえたかどうか)。オケとの縦線合わせに苦慮を感じないでもなかったが、まあ些細な問題だ(以下余談:鈴木はアンコールでバッハの上記コラールを弾いたのだが、初日は同じバッハの『我ら受難の極みにある時も』BWV641であった。何で24日は変えたのかと言えば、鈴木が広上と一緒に撮った写真をアップした自身のツイッターの投稿に「もし明日までに100いいねかリツイート行ったら違うアンコール弾きます!」と書いていたからである‐笑)。

指揮者がこれまでにどれだけ演奏を重ねて来たのかは寡聞にして知らないが、休憩を挟んでのアイヴズで広上は前半2曲よりもさらに冴えていた。古臭い書き方をすれば「自家薬籠中」という奴である。有体な言い方ではあるが、音楽の各部分の表情が入念に練り上げられていて指揮者の血肉化しており、N響もまた広上に全幅の信頼をおいて演奏していることが伝わって来るかのようだ。冒頭の弦楽合奏のしっとりした味わいと多彩なニュアンスはいかにも古典的だが、第2主題提示後にいきなりホルンによって出現する「おおコロンビア、大洋の至宝よ」以降の泡立つようなギアチェンジによる雰囲気の変容とのコントラスト。あるいは第2楽章アレグロ・モルトでのまるでガーシュウィン的なリズムの妙味。第3楽章ではチェロのソロが実に美しく、第4楽章もよく歌わせる。終楽章では錯綜する諸楽想を綺麗にまとめ過ぎたきらいがなくもないが、しかしコーダでさまざまな引用楽曲がさながらごった煮のごとく乱痴気騒ぎを繰り広げる辺りの高揚感の演出は全くもって巧みの一語。この広上の演奏、最後のあの人を喰ったかのような不協和音の引き伸ばしから容易に分かるようにその演奏は全体的に師匠のバーンスタインの解釈に似ているのだが、しかし指揮者が作品を完全に手の内に入れて内面化させているために「真似ではないか」などという安易な意見を完全に退ける。今後アイヴズの『第2』をどれだけ実演で聴く機会があるのか分からないが、この日の広上を越える説得力を持つ演奏に果たして遭遇できるものだろうか。少なくとも同じ方向性ではなかなか難しいのではないか(逆にあれこれ演出をせずドライに行く別の方法? 録音で言えばティルソン・トーマスなどはバーンスタイン=広上ラインとは対照的)。この日のアメリカ&バーンスタインへのオマージュ・プログラム、存分に堪能。有名名曲ばかりではなく、このようなコンサートが増えるのは大歓迎です。

 (2018/12/15)