NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団演奏会|藤原聡

NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団演奏会

2018年11月4日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)撮影日:11/2@サントリーホール

<演奏>
アラン・ギルバート指揮/NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

<曲目>
ワーグナー:歌劇『ローエングリン』から第1幕への前奏曲
マーラー:交響曲第10番 嬰ヘ長調からアダージョ
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 op.98
(アンコール)
ブラームス:ハンガリー舞曲第6番 ニ長調

 

昨年2017年にはウルバンスキ指揮の下で来日公演を行なったNDRエルプフィルだが、今年は2019/20年のシーズンから同フィルの首席指揮者を務めるアラン・ギルバートに率いられての再来日。本ツアー、元来は前首席指揮者ヘンゲルブロックの指揮によって敢行される予定だったのだが、この指揮者が急遽同ポジションを退任することとなり、そのために次期首席指揮者に内定していたアランとの前倒しの来日公演が実現したのだった。尚、アランはこのオケが「ハンブルク北ドイツ放送交響楽団」と名乗っていた時代である2004年から2015年まで同オケの首席客演指揮者を務め、2005年には来日公演も行なっており既に浅からぬ関係を築いている。ヘンゲルブロックとの演奏も楽しみではあったが、アランとNDRエルプフィルのコンビネーションの成熟度を確かめられる機会がより早く訪れた、と捉えて眼前に繰り広げられる演奏を虚心に堪能することにしよう。

そのアランとオケのコンビネーションの確かさは1曲目のワーグナーで既にはっきりと印象付けられる。冒頭ヴァイオリン群の極めて純度が高く、それでいて有機的な絡み合いを聴かせる濃厚なハーモニーを聴くと、ドイツの一流のオケからはこういう音がするものなのだということを改めて認識させられる(日本のオケのハーモニーはもっと淡白である)。全ての楽器が途切れぬ大きな「歌」を紡いで行くかのような連続性を感じさせ、このフレーズ感覚もまたドイツ(一応断っておくが、これは無自覚的な本場礼賛ではなくて実際にそういう音が鳴っているということだ)。アランの指揮は極めて中庸なものであって特別な芝居気はまるでなく、楽曲後半の頂点部分でもそれは変わらない。オケの性格もあるだろうがシンフォニックで非常にカッチリとした演奏で、いわゆるオペラティックな感興というものとはやや違うように思うけれども、それにしてもこの高密度な音楽は生半可なものではない。

次のマーラーでは巧みな「抑制と開放」を印象付けるアランの指揮がまた良い。この曲で要となるヴィオラやチェロの中低域の深みある音とコク、それに対比されるヴァイオリン群の清澄な響き。例のクラスターの不協和音部分に至るまでの過程ではあくまで純音楽的でしっとりとした音楽を聴かせ、そして件の箇所では突然堰を切ったかのような感情を露にする。冒頭で「抑制と開放」と書いたのはそういう意味だが、この設計が大変に秀逸で、これを取ってもアラン・ギルバートの鋭敏な感性が理解できるというものだ。爛熟したものを生のまま差し出すのではなく、解釈者の卓越した美意識を通してレアリゼする。どんな音楽を振ってもアランの音楽からはその種の知性を感じる。音楽の本質を矯めているということではなく、その一部が先鋭化されて表出されるという事だ。

後半のブラームスもまた名演奏。音の重心は低いが低過ぎず、オケはどれほど音楽が荒ぶる箇所でも心地良いまでのピラミッドバランスを堅持して推移する。アランの解釈はここでも過度のロマン性を出さずに端正な造形を維持するが、それだけに終楽章での激情がひときわ印象的であり、ブラームスの全交響曲の中でもこれが例外的な音楽だという認識を強く聴き手に認識させる(バーンスタインは「ここでブラームスは何故そこまで怒っているのか?」と書く)。パッサカリアという古典的形式を用いながらもそこには渦巻くばかりの憤怒。この分裂はいかにもブラームスだという気がするが、その異型の本質をアランは全曲を通して/そして形式への目配せをも行き届いた終楽章の演奏で見事に明らかにしている。良い演奏と言うのはそういうことまで聴き手に気付かせてくれるものなのだろう。

アンコールは同じくブラームスのハンガリー舞曲第6番。タメを効かせた主部ラッサンの歌わせ方と急速なフリスカ部分との素晴らしい対比。中間部を経てそれらが回帰した際にはラッサンをさらにタメまくって聴き手はニヤリとする他ない(ちなみに8日のNHK音楽祭でもアンコールで同曲を演奏していたが、この4日の演奏ほど絶妙ではなかった)。曲の本質に合わせてケレン味も発揮するアランの幅広い芸域に乾杯。

(2018/12/15)