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竹澤恭子 ヴァイオリン・リサイタル|丘山万里子

デビュー30周年 竹澤恭子 ヴァイオリン・リサイタル

2018年11月8日 紀尾井ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 堀田力丸/写真提供:紀尾井ホール

<演奏>
竹澤恭子vn
エドアルド・ストラッビオリpf

<曲目>
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第10番 ト長調 Op.96
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117 BB 124
〜〜〜〜
ブロッホ:バール・シェム
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」

(アンコール)
マスネ:タイスの瞑想曲
クライスラー:愛の悲しみ
ワーグナー:アルバムの綴り

 

チリリリラッタタ。小鳥のさえずりみたいな最初の装飾音で一気に気分はウィーン郊外、ベートーヴェンの小道に。伸びやかな付点音符の足取りに、揺れる木漏れ日のぞく青空、時折梢を鳴らし降ってくるさえずり。響きは繭糸の輝き、柔らかな美音。素敵だ。第2楽章エスプレッシーヴォは中低音の鳴りがぐんと風景の奥行きを広げる。窪地で小躍り、生気に満ちたスケルツォのあとは快活な終章での変奏。重音が地にぐいと杭を打ち、軽やかなピアノとの掛け合いで小走りにコーダへ。
どこか野の香りをまとわせつつ古典的明澄をたたえたベートーヴェン。NYからパリに居を移してのやわらかな空気感が、そこに宿る。過剰も不足も一切ない清潔なソナタだ。

1988年、米日デビューで演奏のバルトークは十八番と言えるが、かつての彼女のそれとは一味も二味も違う。第1楽章はバッハ的端正、勢いで押さず尖がらぬ鋭利。
白刃振るった若さの上に、今は一枚、紗がかかった。発語からフレーズの弧線、句読点、文節、それら一音一音の彫琢に込められた気迫は、だがあくまで力みなくじわっと響く。第3楽章メロディアのヴィブラートの深さ濃やかさ、その弱(寂)奏の陰影もまた。プレストのジグザク疾駆と大柄な旋律の歌い口の果て、最後のひと弓から放擲された音の行方をはっしと見据えるその眼に震撼する。射抜かれたのはバルトーク、そして私たち。

ブロッホはまた全然異なる景色で筆者は少し驚いた。全体を通して、ほぼ不動(に思える)、大地にピタと吸い付く両足(弓が弦に吸い付くのと同じ)の足元から地中エネルギーがぐんぐん吸い上げられ大樹のようにまっすぐに(垂直に上下動する尋常でない弓パワー)空に向かって解き放たれてゆく。どこかで見たなあ、これ、デビューしたてのジェシー・ノーマンだ、と思い当たる。突拍子もない気もするが、あれは生命の樹の歌だった、持て囃されやがて失い消えてしまったけれど・・・竹澤はむしろそれを時を経て得た。ユダヤの地、血、祈りにどんな共感があるのかわからないが、すごい説得力だ。

戻っての『クロイツェル』はピアノとの対話の妙で聴かせる。相槌のうまさに舌をまくが、これも彼女が得た財産のひとつだろう。ここでは弓や音に身体全体を載せ、動く。ブロッホとはえらい違いだ。冒頭『10番』より押し引きドラマを膨らませ。
ピアノも絶妙のバランスを見せる。

要するに当夜の彼女、音楽の湧き出る源泉の噴出形を個々の曲目のすべてで変えているわけ。これこそが30年の熟成だろう。
『風姿花伝』に「年々去来の花を忘るべからず」とあるが、時々の花を現在に一度に持つ、とは、過去の装い芸風の再現でないことを改めて味わい深く思い出した次第。
3つのアンコールでの肩の力を抜いた美しさ。終演は9時半を大きく回ったが、満席の聴衆の惜しみない拍手に幸福そうだった。祝福したい。

                              (2018/12/15)