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クレンケ四重奏団|藤原聡

クァルテット・ウィークエンド2018-2019 クレンケ四重奏団

2018年11月17日 第一生命ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
クレンケ四重奏団
  アンネグレート・クレンケ(第1ヴァイオリン)
  ベアーテ・ハルトマン(第2ヴァイオリン)
  イヴォンヌ・ウーレマン(ヴィオラ)
  ルート・カルテンホイザー(チェロ

<曲目>
J.S.バッハ:『フーガの技法』BWV1080よりコントラプンクトゥス第1番・第2番・第9番
モーツァルト:弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 K465『不協和音』
シューマン:弦楽四重奏曲 第1番 イ短調 op41-1
(アンコール)
パーセル:シャコンヌ ト短調

 

1991年結成というから今年で27年。その間メンバー交代が全くないのが驚きの女性のみで構成されているクレンケSQ。ヨーロッパにおいては極めて高い評価を確立している同団だが、実に今回が初来日とのことだ。GenuinレーベルやProfilレーベルにおいてモーツァルトやシューベルトの録音を行なっていることは知っていたが不覚にもそれらは未聴であり、すなわち筆者にとってはこのコンサートで初めてクレンケSQの演奏に触れることとなる。この日のコンサート、モーツァルトはまだしもバッハとシューマンとは渋く通向けのプログラミングであり、ここからも彼女らの見識というかこだわりのようなものを感じはしまいか。

1曲目はそのバッハ。『フーガの技法』を弦楽四重奏で演奏することは度々行なわれているが、筆者が聴き得た範囲で言えばこの日のクレンケSQの演奏はその4人の同質性、凝縮されたアンサンブルという点で出色のものだったと思う。27年間同一メンバーでの活動という事実は伊達ではない。ただでさえストイックな『フーガの技巧』がより厳しい相貌を見せており、まるで突っ付きやすい演奏ではないが(逆にエマーソンSQの演奏はサービス精神があって聴き易い)、それゆえ楽曲の本質に肉薄した演奏と聴く。

次のモーツァルトも何と言うべきか高潔な演奏である。4人とも非常に美しい音色と高い技巧を持ちながらもそれぞれのメンバーが全く突出せず全体に奉仕している。ではのっぺりしているのかと言えばそれも違い、その音楽には相応の起伏もあればドラマティックさもある。4人の音楽性や技巧、解釈の方向性が恐るべきレヴェルでの一致を見せていて、良くも悪くも破綻がない。この破綻のなさや内へ向かうような禁欲性はこの団体の個性と見做してよいかも知れない。

大体、欧米の弦楽四重奏団ではそれぞれの「我」同士がダイアローグを行なう中で自ずと表現が起伏を伴って盛られていくイメージがあるが、クレンケSQの場合はスタティックと言うか静謐なのだ。だから、聴き手はそこに分かり易い盛り上がりを聴く代わりに互いが聴きに聴き合ってこそ出来(しゅったい)する精妙な4声部の絡み合いを噛み締めるように堪能することとなる。その意味では第2楽章のアンダンテ・カンタービレの美しさは誠に染み入るものがあったが、ここで個人的な嗜好を書かせてもらうとすれば、全体に地味との印象は逃れない。もっと筆者の感覚が高尚(?)なものならピタリとハマッたのかも知れないが。

後半のシューマンもモーツァルトと同傾向。シューマン特有のパラノイアックで熱に浮かされたような焦燥感は希薄で、それは第2楽章のあの執拗な繰り返しを伴うスケルツォ(当曲を知らない方は交響曲第2番の同じくスケルツォを想起頂きたい)でも同様。但し、ここでも聴き方を変えてみるならば、ピアノ的な発想でやたらと暑苦しく音を重ねて行くシューマンのぎこちない書法による弦楽四重奏曲からここまで見通しの利く明瞭な音像を引き出した演奏も稀ではないか。意欲のみが先行して何が言いたいのかいまいち判然としない(笑)第1楽章の「かたち」もこの演奏ではストンと腑に落ちたし、要はこの演奏からは普段の自分の聴き方のベクトル/見方を覆すような発見がいささかなりとも見出せたのだ。感情レヴェルで心底腑に落ちたのかと言えばそれは否定するしかないが、しかしそれでもこの演奏から作品の別の側面を見出せたのは間違いない。それは確実にクレンケSQの確信に満ちた真摯な演奏があってこそのものだろう。

余談めくが/一般論だが、自分の聴き方は常に何らかの「色眼鏡」に染まっており、とある演奏から与えられる違和感や非満足感をこそ突き詰めれば別の視点からの作品への接し方も見えてくる、という考え方をすれば易々と「あの演奏は駄目だ」などと言えないように思うのだが。その意味ではこの日のクレンケ四重奏団には静かに「喝」を入れられた思い。

アンコールにはパーセルのシャコンヌ。ここでもクレンケSQのアプローチは淡々としており、それがともすると聴き手が(と言うより筆者か)この曲に抱きがちのロマンティックで感情移入的な聴き方を解き放ってくれる。これは何よりも「シャコンヌ」であって「ファンタジー(幻想曲)」でないのだ。

 (2018/12/15)