紀尾井ホール室内管弦楽団 第114回定期演奏会|丘山万里子
2018年11月24日 紀尾井ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by ヒダキトモコ/写真提供:紀尾井ホール
<演奏>
マリオ・ブルネロ(指揮・チェロ)
紀尾井ホール室内管弦楽団
<曲目>
アレンスキー:チャイコフスキーの主題による変奏曲 Op. 35a
ルビンシテイン:チェロ協奏曲第2番ニ短調 Op. 96 (弾き振り)
〜〜〜〜
チャイコフスキー:組曲第4番ト長調 Op. 61「モーツァルティアーナ」
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 Op. 33 (弾き振り)
(アンコール)
チャイコフスキー:ノクターン Op.19-4 (ブルネロ独奏)
旋律とは「いきもの」だ、と久々に撃たれた、ブルネロのチェロの旋律線で。
音楽が「歌」なのは当たり前だし、それは「気息」が生み出すもっとも美しいラインであるのだが、眼前でそれが描かれてゆくのを見る・聴く愉悦はそうそうあるものではない。
その前に、最初の『チャイコフスキーの主題による変奏曲』で、この室内管弦楽団の麗しさ、それもやはりブルネロに引き出されたそれに、まずもって胸の前で手を握りあわせる気持ちになったので、触れておく。
筆者は音楽の土台を担う低音弦楽器を偏愛するが、ここでの弦楽合奏のバランスには感嘆のほかない。2つのコントラバスがしっかと底辺を支え、その上にチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンが載ってゆき、その頂点から天上へと昇って行く音、底辺から地へと響く音、そして三角錐のボディ全体から空間を包みあげる音が見事な音響流動体、いや音楽そのものを鳴らし、それはやはりこの稀有なチェリストの「チェリスト」ならではの心身がオケの隅々に行き渡っている、いや、行き渡らせているからだと了解する。
奏者たちの表情を見れば一目瞭然(筆者は当夜、それに胸温められ、また「生(なま)」でしか味わえぬそれ、そして「生」に接し得ない多くの人々を思い心くるしかったのだが)。
筆者の席からでは森岡聡vn、中木健二vc、吉田秀cbの3人の、調べにつれふっと浮かぶ笑み、息、視線に溢れるブルネロへの敬愛、「共奏」がとりわけ「麗しく」目視され、この規模の合奏の素晴らしさを心底再確認したのであった。
具体的には。真珠色したやわらかなテーマの入りから7つの変奏それぞれでのバランスの動かし方、例えば第2変奏チェロパート2分割、ヴィオラとの絶妙呼吸(中木がヴィオラを見やる優しい眼差し!)、第4変奏ピチカートシンコペーション各パートうち揃っての生き生き律動、第6変奏のパワフル推進力、などなど。コーダでの静寂な回想でのさやさや流れる旋律、締めくくるピチカート3つの音の雫に言葉もなし。
ルビンシテインで楽器を抱え真ん中に座したブルネロ。そのチェロを聴くうち、先の「いきもの」を実感したのだ。つまりピッチは動くものだ、ということ(当然だが)。それは測れる正しき音程などではなく、都度、ラインに沿い微妙な温度で動き回るのであって、あそこは高いだの低いだのごちゃごちゃ言うのはデジタル旋律線なのだ。私は昨今のデジタルに慣れ、彼の紡ぐ音に、あれ?的反応を一瞬、してしまったのだが、違う、そうじゃない、これが「いきもの」の歌なのだ、と耳垢ごっそり洗浄されるのに十数秒を要した。
伸びたり縮んだり自由自在。ふくれたり縮こまったり、輪郭の中でどっくんどっくん息づいている響の命。そうだそうだ、これだった、これが旋律というものだった。ブルネロのすごく深〜い息、長〜い呼息、そういうのと一緒に全部が動き、流れる。これが「旋律」であり「律動」である。
ニ短調スラブ風の哀愁を含んだ歌の細身で波面を滑るようにしなやかなこと。終章のカデンツァ、スケールを凄まじい勢いで上下疾駆、ぐんぐん加速での最後の一撃のあと、河野文昭(どっしり要所要所で視線を走らせ、さすがの存在感)、中木が「すげえなあ!」(たぶん)と顔を見合わせ口元綻ばせていた、それがまた「麗し」。
『モーツァルティーナ』では馥郁とした香りを、『ロココ』では「カンタービレとはこういうもの!」というお手本を聴かせてもらった。ブルネロのカンタービレは先述したように、深く長い。細切れにセンテンスを捉まえない。大きく一息でとらえ、自然なラインを描く。この息を共にするのはなかなか難しく思えるが、すべてが一つの生命体となって現前、聴衆もまた共に「ふうはあ」呼吸するのであった。
この日のプログラム、サンクトペテルブルクに立つ作曲家3人の変奏・編曲、モーツァルトの差し色で、オケに多彩を仕込むブルネロらしい組み立て。そのセンスに感謝だ。
もひとつ、ついでに。
筆者の脇、空席一つおいた席に比較的若い男性客、実に嬉しそうに聴いていたが、休憩時、アンケート用紙にせっせ書き込み、この感動を伝えなくちゃ感まんまん。終演カーテンコールに、高々と両手で目一杯拍手、幸せいっぱい満足顔で小躍りするように帰ってゆく姿、思わず、やあやあよかったですねえ、と声かけたくなったのであった。
うるわしきかな。
(2018/12/15)