ジョルディ・サヴァール&エスペリオンXXI スペイン黄金期の舞曲|齋藤俊夫
ジョルディ・サヴァール&エスペリオンXXI
スペイン黄金期の舞曲 フォリアとカナリオ~旧世界と新世界~
2018年11月24日 三鷹市芸術文化センター風のホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
〈演奏〉
エスペリオンXXI
トレブル・ヴィオール、バス・ヴィオール:ジョルディ・サヴァール
ビウエラ、ギター:ハビエル・ディアス=ラトーレ
スペイン・バロック・ハープ:アンドルー・ローレンス=キング
ヴィオローネ:ハビエル・プエルタス
パーカッション:ダビド・マヨラル
(音楽監督:ジョルディ・サヴァール)
〈曲目〉
・・・神聖ローマ帝国皇帝カール5世(カルロス1世)の時代・・・
ディエゴ・オルティス:ラ・スパーニャ
作曲者不詳:フォリア・アンティグア(即興)
作曲者不詳:フォリア・アンティグア『ロドリーゴ・マルティネス』(即興)
ジョスカン・デ・プレ/ルイス・デ・ナルバエス:『千々の悲しみ「皇帝の歌」とファンタジア』(ハープ)
ディエゴ・オルティス:フォリアIV―パッサメッツォ・アンティーコI―サラバンダV―パッサメッツォ・モデルノIII―ルッジェーロIX―ロマネスカVII―パッサメッツォ・モデルノII
ガスパル・サンス:ハカラス、フォリア、カナリオ(ギター)
ペドロ・デ・サン・ロレンソ:フォリア(第1旋法、第10番)
作曲者不詳:グラウンドによるグリーンスリーヴズ
作曲者不詳:ティシュトラの伝統的なグアラーチャ(即興)
・・・フェリペ2世の時代・・・
ペドロ・ゲレーロ:ダンサ・モリスカ
アントニオ・デ・カベソン:パヴァーヌとそのグローサ
作曲者不詳(トルヒーリョ写本、ペルー):カチュア・セラニータ(即興)
サンティアゴ・デ・ムルシア:ファンダンゴ(ハープ)
アントニオ・マルティン・イ・コル(と即興):フォリアに基づくディフェレンシア
フランシスコ・コレア・デ・アラウホ:『無原罪の懐胎(世の人こぞりて)』に基づくグローサ
作曲者不詳:カナリオ(即興)
アントニオ・ヴァレンテ(と即興):ガリャルダーハラベ・ロコ(ハローチョ)
(アンコール)
ブルターニュの伝承曲『Gwerz』
マラン・マレ:ミュゼット
ジョルディ・サヴァールは世界的なヴィオラ・ダ・ガンバ奏者にして古楽研究者。彼は故モンセラート・フィゲラスらとともに設立したエスペリオンXXIにおいて10世紀から18世紀頃の、地中海や新大陸につながる音楽遺産を発掘・研究・演奏し続けている。三鷹市芸術文化センター風のホールでは昨年に続いての二回目の公演である。
まず、「スペイン黄金世紀の舞曲 フォリアとカナリオ~旧世界と新世界」そして「カルロス1世の時代、フェリペ2世の時代」という副題に驚かされた。「フォリア」という音楽形式は知っていたものの実演は聴いたことがなく、「カナリオ」に至っては蔵書中にも出てきたことがない。音楽史書を紐解いても、カルロス1世とフェリペ2世は音楽を愛好し振興したという歴史的エピソードはあるものの、その時代のスペインの音楽についての記述はほぼなく、あるのはむしろ否定的な記述のみであった。
今回取り上げられたフォリアとカナリオを中心とした音楽の歴史と地理はプログラムと共に配られたサヴァールとルイ・ヴィエイラ・ネリ(音楽学者)のA4紙3枚の詳細な解説(関根敏子訳)によって明らかになったが(このような配慮は実に嬉しくありがたい)、その実演たるや、自分の中の「音楽」の固定概念が心地よく揺さぶられる体験であった。
太鼓がゆっくりと打ち鳴らされ、ヴィオローネがバッソ・オスティナートを奏で始める。スペイン・バロック・ハープとギター(あるいはビウエラ。筆者には形を見て音を聴いただけでは2つの楽器のどちらかは判別できなかった)が優しく音を散りばめ、そこにバス・ヴィオールが実にしみじみと美しい旋律を歌いあげる。
いや、ただ「美しい」とだけ記述するのでは足りない。この「美しい」という単語で「音楽」を語ったとき、そこに通常イメージされるであろう「音楽」と今回の「音楽」はあまりにも異なるのである。
あるときは在りし日の美しい思い出を語るように、あるときは華やいで情熱的に激しく舞うように、あるときは慟哭と共に楽器を掻き鳴らし、さらに清澄かつ神聖とも呼べる澄み切った響きが会場を満たし、そしてそれらがみな自然で虚飾がなく、涙と笑顔、哀しさと喜び、全てが混じり合った「感情」を呼び覚ます。
筆者もその中にいる「近代以降」の世界とは何であろうか。すなわち、「合理主義」が支配する世界であり、全てが分節化され、組織化され、それゆえに複雑化と巨大化に成功(?)した世界である。楽譜の発明・普及、オーケストラの形成・発展が近代合理主義によることは言うまでもない。しかし、今回筆者が悟らされたのは、自分の「感情」までもが近代合理主義によって分節化されていたことである。
長調と長三和音は喜びを、短調と短三和音は悲しみを表す、という言説に近代合理主義的な音楽観はたやすく見て取れよう。その音楽観を「学ばねばならない」という社会的事実はまさに近代合理主義による支配でなくて何であろうか。いわんや音楽(広くは芸術一般)と感情や欲求を切り離さねばならないという客観的・自律主義美学・芸術観においてや。
そこでは人間という「存在」の中にある「混濁」が除去され、人間の感情が合理的に分節化された上で「動かされている」のである。喜び、悲しみ、笑い、涙、それらはかつて混じり合い一つのものだったのだ。
また、音楽を〈鑑賞〉せねばならないというイデオロギー(*)に代表される、芸術音楽における演奏者・創作者とそうでない者の社会的ヒエラルキー的分断が今回のステージでは感じられなかった。5人の、即興を多分に混じえた演奏は、「今、ここで、友人たちと生の音楽を創っている」という雰囲気であり、卓越した技巧に支えられながらも余所余所しさが全くない。ソロを奏でているメンバーを見守る他のメンバーの温かい眼差しには、音楽というものを共に創り出す「友情」が満ちていた。
サヴァールとその仲間たちの音楽は決して「古代趣味」ではない。古代趣味は「近現代の病」であり、進化論的文明観と表裏一体のものである。古代趣味は「ないものをないままに憧れる」のであり、サヴァールたちは「埋もれているが今、ここにあるものを蘇らせている」のである。筆者は、いや、聴衆みなが聴いたのは「ただ時間的に古い音楽」ではない。「自分の中にある音楽」であり、それは「サヴァールたちの音楽」と一体となって今、ここに現れたのである。
シンプルな同一主題(例えば有名な『グリーンスリーヴズ』)を何度も、自由に変奏しながら反復する。3+3+2+2+2の変拍子にのって皆で楽園的に踊る。プログラム最後の曲の終わりでは全員でまさに「ぱらいそ(天国、楽園)」的な色彩をほとばしらせる。会場からの鳴り止まない拍手の後で、アンコールの子守唄(ララバイ)が奏でられてその静寂に耳をすまし、さらなるアンコールで旅人のように遠くに去っていく。なんという音楽体験であったことか。
「古楽」が一般化し、それが「正しい音楽」となる、つまり「近代合理主義社会に回収される」という危惧を筆者は薄々感じているのだが、演奏者たちと聴衆の満面の笑みを見て、少なくとも今回の演奏会はそうではないとわかった。音楽の始原的な姿、音楽とは自分の中にあるものだという真実を確認できたのだ。
また、最後に、今年9月の「ジャン=ギアン・ケラス&フレンズ トラキア・プロジェクト」と今回を主催した公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団の炯眼を感謝とともに讃えたい。
(*)日本にしかない〈鑑賞〉という社会規範については、西島千尋『クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか』新曜社、2010年を参照されたい。
(2018/12/15)