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CROSSING 衢 PROJECT Vol.3 異人の秋、呼び交す夢。|齋藤俊夫

CROSSING 衢 PROJECT Vol.3 異人の秋、呼び交す夢。
~ギター、ソプラノ、ヴァイオリン;古典と新作によるソロ・デュオ・トリオ~

2018年11月4日 川崎能楽堂
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by  東昭年

<演奏>
ギター:ペトリ・クメラ
ヴァイオリン:ヤンネ舘野
ソプラノ:吉川真澄

<曲目>
ペトリ・クメラによる委嘱シリーズ〈小生物音楽大全〉より(ギター)
 ペール・ヘンリク・ノルドグレン/カレヴィ・アホ:『藻岩の栗鼠(りす)』
 ミンナ・ライノネン:『海栗(うに)』
 平野一郎:『平家蟹』
 ヨアヒム・F.W.シュナイダー:『アンナハチドリ』
 ジミー・ロペス:『天道虫(てんとうむし)』
ジョン・ダウランド:『私を暗闇に棲まわせておくれ』『彼女は言い訳できようか』(ヴァイオリン、ギター)
平野一郎:『アナベル・リー~E.A.ポーの詩に拠る物語歌(バラッド)~』(ソプラノ、ヴァイオリン、ギター)(2018、世界初演)
平野一郎:『秋の歌』(ソプラノ)(2014/吉川真澄委嘱)
エイナル・エングルンド:『アリオーゾ・インテルロット』(ヴァイオリン)
平野一郎:『異人歴程(ゐじんれきてい)~L.H.の銘に拠る、ギターとヴァイオリンの為の組曲~』(ギター、ヴァイオリン)(2013/ヤンネ舘野&ペトリ・クメラ委嘱)
  I:北へ
   肖像α
  II:西へ
  肖像β
  III:南へ
  肖像γ
  IV:東へ
ジョン・ダウランド:『涙のパヴァーヌ(ながれよ我が涙)』(ソプラノ、ヴァイオリン、ギター)

 

〈CROSSING 衢 PROJECT〉は、作曲家・平野一郎が制作している不定期のシリーズ。第四回目の今回は「異人(まろうど)の秋、呼び交す夢。」と第して、フィンランド、ドイツ、ペルーの現代作曲家、イギリス・エリザベス朝のジョン・ダウランド、そして平野一郎の作品を、ペトリ・クメラのギター、ヤンネ舘野のヴァイオリン、吉川真澄のソプラノで演奏した。

非常に美しく、感銘を受けたと素直に言える作品と、美しいと思えず、さらに、制作・作曲の平野の美意識について深く考えさせられる作品が並んでいた。

まず、美しいと思えた作品について。

ペトリ・クメラによる委嘱シリーズ〈小生物音楽大全〉は、条件A:作品は短くなければならない、条件B:題材となる生物は猫より大きくてはいけない、という制約のもとでペトリ・クメラが世界中の作曲家に委嘱している作品集。その中の5作品が今回演奏された。

ノルドグレン/アホ(フィンランド)は可愛らしく、すばしっこく、少し寂しい栗鼠(りす)が梢を駆け巡る。ライノネン(フィンランド)の海栗(うに)は棒かなにかで弦をギリギリとこすり、点描的な音楽を奏でる。しかし、それらが異化効果や違和感や耳を聾する音をもたらすのではなく、あくまで静かで、安らぎ、深い海の中の孤独を感じさせる。平野の平家蟹は通常の「響く」奏法はほとんどなく、乾ききった、ふるさびた世界が広がる。シュナイダー(ドイツ)のアンナハチドリはボトルネックやハーモニクスらしき奏法を用いて、最高音域でのさえずり、もしくはハチドリの尾翼からの求愛音(作曲家プログラムより)を鳴らす。ロペス(ペルー)の天道虫(てんとうむし)は「春に初めて天道虫を見つけた時のえも言われぬ喜びと、爽やかな心地を伝えようとするものである」と作曲者がプログラムに書いてあるとおり、3連符の反復が次第に盛り上がり、太陽に向かって天道虫が飛び立つような歓喜に満ちた音楽。

上記の2つの条件が無駄のなく、独創的で、親しみやすい音楽を可能にしているのだろう。大変面白いシリーズであった。

順番は大きく飛ぶが、フィンランドのエングルンド『アリオーゾ・インテルロット』は伝統的・機能和声的には「不協和」とされ、前衛音楽的には「保守」とされるであろう旋法・和声による音楽。しかし飾り気が全くなく、独特の孤独感とともに心にしみる。中間部のやや激しい部分も北欧ならではの哀愁を身にまとっている。ヤンネ舘野のややかすれたヴァイオリンの音が実にこの作品にふさわしく感じられた。

今回、最も美しくまた独創的だと感じられたのは平野一郎『アナベル・リー~E.A.ポーの詩による物語歌(バラッド)』であった。子供のように愛し合っていたのに引き裂かれ、死んでいった恋人・アナベル・リーへの悲しみと愛の歌。朗読、朗唱、歌唱を行き来する、吉川真澄の、ベル・カントとは全く異なる、細く、小さく、繊細で、ほの甘い、ひそやかなソプラノの歌声に聴き入った。ポーの原詩の夢のような儚さとほろ苦い切なさは彼女の歌声でなければ表現できなかったであろう。

美しいのかどうかわからず、その美意識について深く考えさせられたのは平野の次の2作品である。

『秋の歌』、近畿、中国、四国地方の「だんじり祭り」を題材にした、あるいはそれを音楽的に表現した作品。だが、筆者にはこれがだんじり祭りだとも、平野という、今、ここにいる人間の音楽とも感じられなかった。

柏手(?)と手を擦るのに始まり、民謡風(どこかのだんじり祭にはこのような唄がついているのだろうか)のヴォカリーズ、「シュッ、シューッ、チュッ、チュクチュッ」といった無声音、鳥や猿の鳴き声や羽音を模したような発声が連なる。筆者にはこれらは日本趣味の外国人が作ったミュージックコンクレート作品をさらに模倣したように感じた。

次第にこのだんじり祭りか何かは盛り上がっていき、しわがれ声、絶叫、「そらよっ」「あらよっ」というかけ声、ドンドンと足踏み、手に持った団扇2つを体に叩きつける、などが入り乱れ、激しい形相を呈してくるのだが、筆者にはそこに熱いものではなく、白々しいものしか感じられなかった。一際高い絶叫の後、ヴォカリーズが最弱音までディミヌエンドして、歌手が合掌して曲が終わった時、ああそうか、とわかった。ここには生活や肉体と共にある信仰や伝統ではなく、他所から来た者の幻想しかないのだと。

4楽章と3つの間奏曲からなる平野の大作『異人歴程(ゐじんれきてい)』、ラフカディオ・ハーン(副題のL.H.とはLafcadio Hearnのこと)の漂泊の魂に心寄せた音楽だそうだが、ギターを膝の上に平らに置いて胴を小さく叩き続け、ヴァイオリンも膝の上に縦に置いて指で叩き続けるイントロダクションを聴いた瞬間に、先の『秋の歌』のこともあって、その後の展開は大体読めてしまった。およそ40分間、延々と続く弱音。何故かわからないが挿入される足踏みや強い噪音。終わりそうでいつまでも終らない終盤は、昔テレビのお笑い番組で見た「何回切られても死なずに立ち上がってはまた切られを繰り返す時代劇の切られ役のコント」すら想起した。

平野も演奏者たちも全く真剣であり、どこにもふざけるような要素はないのは理解しているつもりだが、悲劇も過ぎれば喜劇となり、風雅も過ぎれば野暮となり、静寂も過ぎれば笑いを誘うこともあろう。残念ながら、筆者にはこの作品はそのような「空回り」が過ぎ、同じ平野でも先の「アナベル・リー」の切り詰められた美しさとは遠いもののように思えたのだ。その空回りとは、平野の想像力がこの地上の現実から遊離して、どこにもないものを見て、聴き続けていたということである。

音楽とは、「今、ここにある」ものが全てであるはずだ。たとえどんなに美しいいにしえの時代や遠い異国を見せようとしても、聴こえてくるのは「今、ここにある」音楽でしかないのだ。

今回演奏されたダウランドの室内楽曲と歌曲の美しさは、その音楽が古いことに由来するのではない。その音楽が美しいから美しい、それだけなのだ。古いものに宿る美しさもあろう。しかし、古いから美しいのではない。ましてや、古いものを装った新しいものとは何ものであろうか。今、ここにあるものを見つめての、今、ここにいる平野の音楽をこそ聴きたいと強く願った。

いささか余談になるが、亀井勝一郎が敗戦間際の1945年7月に書いた「日月明し」という小説には、空襲の焼け野原で茶を点てるシーンが描かれている。「空襲直後の、殺伐たる中でお茶を点てることこそ風流の極致であろうといふ点で、意見は一致した」という文章に、筆者は現実を見ない文明人の寒々しい美意識を感じたのだが、平野はこれをどう考えるのか一度尋ねてみたいと思う。

 (2018/12/15)