パリ・東京雑感|人間の顔の復活? 3つの肖像画展から|松浦茂長

人間の顔の復活? 3つの肖像画展から

text by 松浦茂長 (Shigenaga Matsuura)

このところパリでは肖像画=人間の顔をテーマにした展覧会が妙に多い。絵画の世界になにやら大変化が起こりつつある徴なのか、それともただの偶然なのか?
去年はセザンヌの肖像画を集めた大展覧会があり、パリの美術ファンを興奮させた。今年はコローの肖像画展。そして圧倒的な『ピカソ、青の時代とバラ色の時代』展が開かれ、長い行列ができた。コローはニンフが踊るようなロマンチックな風景が得意な画家で、肖像画だけ見せるというのは意外な企画だし、風景と静物が1枚もないセザンヌ展も大胆だ。人間の苦悩・哀しみにとりつかれた若いピカソ=<青の時代>に絞った展覧会はフランスでも初めてだそうだ。一体何が起こっているのだろう?人間の顔が復活するのだろうか?

さ迷う視線

セザンヌの描く自然は、さっぱりして気持ちが良い。コローの自然のような詩的陰影は切り捨て、テオドール・ルソーのように自然の神秘な生命を感じさせる躍動感もない。自然の向こうに神話や物語を探るのではなく、端的に目に見える自然だけを描こうとしたかのように思える。絵画から<意味>を排除し、挙げ句の果て「自然を円筒、球、円錐によって扱った」セザンヌは、キュービズムに道を開き、「現代絵画の父」と呼ばれるのだそうだ。
とんでもない!彼は晩年まで肖像画を描き続け、人間の心の深みへの探求を止めなかった。
有名なセザンヌ夫人の肖像は無表情あるいは呆けたような顔だし、トランプをする男には思い入れが全くない。人間をモノのように見ようとしたかのようだ。肖像を静物画にしてしまったところが、セザンヌの目の新しさだとも言われる。しかし、展示されたおびただしい数の夫人像を見渡すと同じ表情は二つとないし、そこからは不安、悲しみ、あきらめといった人間くさいメッセージが伝わってくる。彼女は風景や静物ではない。人間なのだ。
妻を愛せないセザンヌは、妻を繰り返し描くことによって自分と彼女の関係を問い続けた。愛されない女がどんな顔になるかを、日本の私小説のように克明に記録する。妻の肖像を描くことは、セザンヌ自身の倫理的省察にほかならなかった。

メランコリー

青い服の夫人像にはこんな説明が添えられていた「セザンヌ夫人の眼差しは、ほかのどの絵よりも、なおざりにされた妻の憂い(メランコリー)を表現している。肖像画につきもののポーズも気取りもない。ポーズや気取りの排除は現代的肖像画へつながる革新である。」
肖像画を見る私たちの構えが変わるのかも知れない。伝統的な肖像画を見る楽しみは、王様、貴婦人、芸術家といった自分たちより大きな人間を眺め、どんな人生を送ったのか彼らの心を読み取る、いわば英雄への憧憬と解釈の行為だった。ところがセザンヌ夫人のうつろな目は何も語らない。逆に、見る私たちの方が、問われている。私たちの視線が描かれた人物に向かうのではなく、絵の中の人物の視線が私たちを捉える。その視線の前に、見る側はうろたえ、たじたじとなる。不幸によってうつろにされた目に対し、見る者は無関心でいることは赦されない。鑑賞者は、絵の中の人物に対し、なぜか深刻な負い目を感じてしまう。

病院に娼婦を訪ねて

ピカソの青の時代に登場する男女も、目は哀しみに凝固し、呪われた人生の不幸を全身で訴え、私たちが彼らに答えることを要求している。ピカソは親友が愛人に裏切られて自殺したあと、とりつかれたように人間の悲惨を描いた。性病にかかった娼婦を見るために、特別の病院を訪ねて描いた肖像は、見る者の心を突き刺す凶器のようだ。センチメンタルな悲哀とはかけ離れた、救いのなさ。見る者に甘えは赦されない。この哀しみに対し、私はどう責任を取れば良いのか、不可能な回答を迫られるのだ。
見る者を苦しめるこんな絵を買って、自分の部屋にかけるほど勇気のある人はいないから、青の時代のピカソは貧乏に苦しんだ。次のバラ色の時代はセンチメンタルで優しい絵になったので、飛ぶように売れたそうだ。

フランコ独裁の脅威が迫る

ところが、青の時代にあれほど人間の顔を凝視したピカソの絵から突然顔が消える。顔が、子供の絵のような記号になり、そこから魂の苦悩も喜びも読み取れなくなる。なぜ人間が顔を失うのだろう?ピカソ一人ではない。第二次世界大戦が近づく頃、西欧の絵画から顔が消えた。抽象画でなければ「遅れている」と軽蔑される時代になり、肖像画は前世紀の遺物になってしまった。
ピカソがカタツムリの頭みたいな、顔が小さく記号化された人間を描いたのは、フランコ独裁の脅威が身近に迫った時だった。圧政によって自由を失う恐怖を、こんな姿に表現したのだろうか。青の時代の、人生を凝縮した深い精神的表現に比べると、いたずら書きのように見える絵によって、ピカソの天才は、来たるべき時代を予言しているのだ。
アウシュビッツに収容されたユダヤ人は、番号を腕に入れ墨され、名前ではなく番号で呼ばれた。自由な主体としての人間ではなく、ただの番号存在なのである。アウシュビッツとヒロシマを経験した人類は、もはや、堂々とした主体を描くことはできない。顔はまぶしすぎるし、しょせん<自由な主体>はフィクション=ウソになってしまった。20世紀後半は顔のない時代になるしかなかったのだ。

ところが、ここ数年来、肖像画復活の兆しが見られるのだそうだ。『ニューヨークタイムズ』にダシコ・ペトロヴィッチが書いた記事によると、アメリカ大統領が任期終了直後に肖像画を残す伝統が守られていたが、その絵は一種のセレモニーと見なされ、話題にもならなかった。とりわけ過去半世紀は、肖像画というジャンルが、タブーと言っても言い過ぎでないほど馬鹿にされ、時代錯誤とされてきたのだが、オバマ大統領の肖像画は美術界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。それは、オバマ氏が、アフリカ系アメリカ人の日常を描く肖像画家、ケヒンデ・ワイリーに依頼したからだ。
ワイリーが肖像画を発表した2000年代初めには、抽象画が圧倒的で、具象に戻るのは常軌を逸した行為だった。ところが、いまやワイリーは美術界の巨匠と見なされるほどに評価が高まったのだそうだ。
それにしても、なぜいまさら肖像画なのか?ペトロヴィッチはこう言う。「私たちは、現実が毎日ゆがみ、わずか一年半後には見分けも付かないものになってしまう、そんな時代に生きている。真実、あるいは事実の概念そのものが代替可能になってしまった今、技巧を確実にマスターした芸術家が、物質界にしっかり根を下ろした現実を描写し、誰を描いたのか良く分かる絵を見るのは、気持ちを落ち着かせ、安心させる。」
外的<現実>がとめどなく浮遊するとき、頼りになる<現実>を作り出すのは芸術家の仕事だ。しかし、半世紀も忘れられていた<肖像画>を甦らすことが出来るのだろうか?昔のような立派な顔を探して描いても所詮パロディにしかなりそうもない。第一、昔に比べて立派な顔が減った。モナリザやエラスムスみたいなモデルは見つかりそうもない。

セザンヌとコローの肖像画展、ピカソの青とバラ色の時代展は、おそらく肖像画の復活待望を敏感に感じ取った学芸員が企画したのだろう。肖像画の歴史の終末を飾るセザンヌとピカソの作品には共通点があった。その絵の前で、私たちは心穏やかでいられない。モデルとなった人たちの眼差しが、見る者を傷つけ、私たちの良心をうずかせる。鑑賞者の目覚めを要求する絵なのだ。

ケリー・ジェームス・マーシャル『スタジオ』

描かれている人が、見る者に意識改革を迫ると言う点では、アメリカの新肖像画も同様。ケリー・ジェームス・マーシャル、エイミー・シェラルドといった肖像画復活の立役者が描くのはもっぱらアフリカ系か中南米系、あるいは不法移民や難民である。これまで絵画あるいは文化の圏外に置かれてきた、いわば顔のない人たちに顔を与える絵なのだ。
移民やLGBTを敵視し、社会の分断と憎悪をあおるトランプ流のリーダーが、不気味に増殖するいま(ポーランド、ハンガリー、イタリア、ブラジル……)、マイノリティの一人一人はますます顔を奪われた存在にされている。ファシズムに向かって急降下するこの時代に、人間の顔を取り戻す試みが生まれたのは心強い。不可能に近い困難な試みかも知れないが。

(2018年10月31日)