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藤倉大 オペラ『ソラリス』&『藤倉大 個展』|藤原聡

東京芸術劇場コンサートオペラ vol.6
藤倉大(台本:勅使河原三郎):歌劇『ソラリス』全幕(日本初演・演奏会形式)
日本語字幕付原語(英語)上演

2018年10月31日 東京芸術劇場コンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<出演・演奏>
ハリー:三宅理恵
クリス・ケルヴィン:サイモン・ペリー
スナウト:トム・ランドル
ギバリアン:森雅史
ケルヴィン(オフステージ):ロリー・マスグレイヴ
指揮:佐藤紀雄
管弦楽:アンサンブル・ノマド
エレクトロニクス:永見竜生
コレペティトゥール:岩渕慶子
字幕翻訳:横尾優美子

Hakuju Hall 開館15周年記念「藤倉大 個展」
2018年10月20日  Hakuju Hall
写真提供:Hakuju Hall

<演奏>
カルテット・アマービレ:篠原悠那、北田千尋(以上、ヴァイオリン)、中恵菜(ヴィオ ラ)、笹沼樹(チェロ)
小林沙羅(ソプラノ) 新倉瞳(チェロ) 福川伸陽(ホルン) 本條秀慈郎(三味線)
村治奏一(ギター) 吉田誠(クラリネット)

<曲目>
★Part 1
Neo(音緒)~三味線のための (2014)
きいて~ソプラノのための (2017)
Moment~チェロのための (2006)
ゆらゆら~ホルンのための (2017)
GO~ピアノと管楽のための より 第5楽章 クラリネット独奏曲 (2016)
Eternal Escape~チェロのための (2001 rev. 2006)
Halcyon~クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための (2011)

 ★Part 2
Rubi(co)n~クラリネットのための100の音 (2006)
ゆらゆら~ホルンと弦楽四重奏のための (2017)
Osm~チェロのための (2015)
夜明けのパッサカリア~ソプラノのための (2017)
チャンス・モンスーン~ギターのための (2014)
Perpetual Spring~クラリネットと弦楽四重奏のための (2017)
はらはら~ホルンのための (2018 Hakuju Hall 開館15周年記念作品 世界初演)

 

2015年にパリのシャンゼリゼ劇場で世界初演され、今年5月にはアウグスブルク歌劇場において新演出で再上演された藤倉大の『ソラリス』がこの度日本初演と相成った。但し、初演では台本執筆の勅使河原三郎演出―自身も踊る―によるダンサーらの舞踊があり、アウグスブルクでの上演では舞踊ではなく通常の演技を伴う上演であったが、そこでの舞台装置や演者の衣装などをも含めた演出(ディルク・シュメーディング)がシャンゼリゼより具象的なものとなっていてより「分かりやすく」なっているが、いずれにせよそこではフルステージ形式での上演だったのに対して今回の日本初演では演奏会形式での上演である。元来レムの『ソラリス』という作品はSFの体裁をとりながらもすぐれて形而上学的な内容を持つ作品であるが、さて演奏会形式が吉と出るか凶と出るか。

だが演奏会形式、とは言いながらも東京芸術劇場の照明はいかにもそれらしいものに変容している。開演前から場内は薄暗く、ステージ上方のパイプオルガンと両脇の壁面にはダークブルーのライティング、いかにも雰囲気豊か。これがオペラの進行に伴い細かな変化を伴って物語を補足して行く。ステージ上の15名ほどの小編成アンサンブルの後方には高台がしつらえられ、歌手達はそこから歌う。最初に上演全体の印象を述べると、これは演奏会形式ではなくて通常の上演にした方が遥かに楽しめるものとなっていた気がしてならない。その理由としては音楽―というよりも歌唱部―の意外な単調さである。歌手達はいずれも極めて水準が高いが、いわゆる「ゲンダイオンガク」とはかなり趣の異なる伸びやかで分かりやすい旋律、はよいにしてもこれが存外単調で色合いに乏しい。最初こそインパクトがあるにせよ次第に退屈してくる。色に例えれば「灰色」。クリスの内面の声をオフステージの歌手にライヴ・エレクトロニクスを用いて歌わせるという工夫も事前にこのアイデアをゲンロンカフェ(後述)で藤倉自身から聞かされた時には面白いと思ったものの、実際の上演で聴いてみると音響はもろに被ってよく分からない状況と聴こえ、思ったほどの効果がないように感じる。しかしこれら声楽の扱いに比してオケ部ははるかにヴィヴィッド、多彩な音響に満ちていて飽きさせず、これを聴くと藤倉大の本領はアイデアに富んだ瞬発的な音響それ自体の愉悦感にある気がして来る。

本作は全体で5部で構成されているが、原作のストーリーをそのままフォロー出来るわけではないのだから(と言うかその必要もないのはオペラゆえ当然だ)、原作で発生した事件を拾ってフォローして行くのだけれど、これが原作を知らない人が接した場合相当に分かりにくいのではないか。これを字幕を延々と見ながら追って行くのはなかなかしんどい作業だ(その字幕も、例えばソラリスの海が作り出したハリーのコピー=幽体を「お客」と書いていたように思うが、これに括弧がなくそのままお客と書かれていた。これはスナウトやギバリアンが便宜的にソラリスの海が生成した非=人間である幽体をそう呼んでいるのだが、括弧を付けないと原作を知らない人は字義通りの客と思ってしまわないか?)。

タルコフスキーやソダーバーグの映画版では原作にはない地球でのシーンが登場し、それは「やがて帰還すべき故郷」または「愛を失い、そして回復する場所」という意味合いが付加されていたが、この藤倉版に地球のシーンはなく、ノスタルジックあるいはセンチメンタルな身振りははるかに少ない。しかし、ここで物足りないのは不気味で人間の理性の埒外にある「ソラリスの海」の存在感/異物感がいかにも希薄であったこと。これは先述の映画版でもそうだったが(殊にソダーバーグ)、本作ではクリスやハリー、スナウトたちの人間的感情の問題に比重が置かれている。もとより原作のあまりに入念な「ソラリスの海」の描写や延々と続くソラリス学の系譜の記述を再現するのはオペラでは不可能だろうが、そこを台本の工夫でフォローするなりして観客に感知させてもらえればはるかにオペラとしての立体感と多層性が増したことだろう(本オペラ化のキモをソラリスの海それ自体の圧倒的に理解不可能な存在感、とするならば、台本化に際しての原作の大きな脚色もありうるだろう。オペラはオペラで原作とは異なるテイストであってよい、というのは一般論だが、こと『ソラリス』となるとやはり「海」を登場人物に拮抗あるいは凌駕するものとして描いて欲しい)。演奏会形式ではなくフルステージ形式で演出付で上演すればあるいはその辺りの物足りなさはかなり解消される余地があった気もする。

総じて、原作にある多彩なレイヤーの表現要素をより上手く台本に取り込めれば良かったと思う。そして藤倉大の音楽はやはり藤倉大の音楽であり、その意味では極めて嘘のない実直な音楽で楽しめるのだが、そういった聴き方をするのではなく純粋に「オペラ作品」として見た場合にはより上手く聴かせる/見せる余地はあるという気がした。

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『ソラリス』上演の11日前である10月20日には、ハクジュホールにて「藤倉大の個展」という二部構成のコンサートが行なわれた。前/後半それぞれ7曲で併せて14曲、どれも数分の短い曲を多彩な演奏者が入れ替わり立ち代り登場して演奏する。三味線のための『Neo(音緒)』(演奏:本條秀慈郎)での竿を持つ左手でのアルペジオ、ソプラノ・ソロのための『きいて』(小林沙羅)において、最初の歌詞「きいて」を何度も何度も様々なアクセントとイントネーションで歌うさま、チェロのための『Moment』(新倉瞳)では多様なピチカートと左手での楽器の首をパーカッシヴに叩く奏法、さらにはホルンのための『ゆらゆら』(福川伸陽)ではハーフ・ヴァルヴ奏法で全曲を演奏させるという荒業、ギターのための『チャンス・モンスーン』(村治奏一)では激烈なストローク奏法が登場、という具合にどの曲でも極めてユニークなやり方で多彩な音響をよく知られた楽器から抽出しているのだ。そこには、音楽外的な何らかの表現したい主題がある、というよりはその楽器のポテンシャルをどうやって多彩なものとして引き出すのか、というある種のプリミティヴな欲求があるように思える。これは『ソラリス』の記述内で記載した「…藤倉大の本領はアイデアに富んだ瞬発的な音響それ自体の愉悦感にある気がして来る。」ということと同義だ。

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さらに、10月30日には五反田のゲンロンカフェで藤倉と川島素晴、木石岳の対談があってそちらにも行って来たのだが、藤倉は自らが相馬で行なっている「エル・システマ作曲教室」に言及、そこでは「面白い奏法を教えて勝手にやらせる」、もしくは作曲を教える/演奏家に注文を出すに際して「論理的に言ったことがない」旨の発言があった。後者についてはスカイプ上での村治奏一との実際のやり取りをモニターで見せてくれたのだが、これは本当に字義通り(笑)と言う感じであって、勿論根底にはアカデミックな知識や経験を有しているのだろうが(何せブーレーズに大いに買われていたのだから)、藤倉大という作曲家は基本的には「感覚の人」「表層の人」なのではないか。少なくとも「個展」での作品は『ソラリス』よりもしっくりと「ハマって」いたのは疑う余地のないところだ。この作曲家には他に2作のオペラがあるが、それらも聴いてみないことには「藤倉のオペラ」について断定的なことはまだ言えぬが。

(2018/11/15)