東京ニューシティ管弦楽団 第120回定期演奏会|齋藤俊夫
2018年9月25日 東京芸術劇場コンサートホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 藤本崇/写真提供:東京ニューシティ管弦楽団
<演奏>
指揮:ヌーノ・コエーリョ
マリンバ:塚越慎子(*)
<曲目>
ロベルト・シューマン:『序曲、スケルツォと終曲』
伊福部昭:オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』(*)
L.V.ベートーヴェン:『交響曲第7番』
伊福部昭『ラウダ・コンチェルタータ』における塚越慎子のマリンバ独奏は文句なしに素晴らしかった。マリンバが初めて入ってくる部分のズシリと重い感触、その後の3のリズムを基調とした舞踊的なソロに満ちる野趣、これぞ伊福部昭。また弱音、特に中間部の長い独奏部分のそれは伊福部解釈にありがちな「爆音」のイメージを覆すに足る、神秘的で、母性的な、伊福部の土俗性と重なるそれは「大地母神」的とでも言える、塚越にしかありえない伊福部のマリンバであった。
だが、残念ながらオーケストラは塚越のマリンバに見合うものではなかった。平たく言えば、軽く、薄く、弱すぎたのであり、いささか修辞的に言えば、伊福部昭の音楽の、地下を流れるマグマのように、見えないながらも最初からずっと熱を保ち続け、最後に噴火するその膨大なエネルギーをオーケストラ全体で生成・持続することができていなかったのだ。
それは冒頭の弦楽、ラストのトロンボーンによる、曲全体の主題のフォルテなどが弱いというだけではない。ピアノの音もまた「弱かった」のである。先述した塚越の「神秘的な弱音」のマリンバに対して、オーケストラの弱音は「ただ弱いだけ」であって表現力がなく、マリンバの妙技の味わいを薄めてしまっていた。
この「表現力のなさ」は伊福部のみならず、シューマン、そしてベートーヴェンでも現れていた。
『序曲、スケルツォと終曲』の序曲での、短調と長調の交錯による、シューマンならではのあの感情・精神状態の危ういバランス感覚の表現は聴き取れなかった。終曲でのフーガはフーガの主題だけ聴こえてきて対位法が成立しておらず、最後も喜びに満ちたコーダのはずが全く嬉しくない。
ベートーヴェン交響曲7番、たしかにテンポは速いが、奏者がそれについていけておらず、よって速度はあってもこの作品に必須の「勢い」「躍動感」はない。オーケストラの音量の幅も小さく、管楽器が大らかに吹き鳴らされるべき所でも何も響いてこない。では繊細な弱音が聴こえてきたかというと、それもなく、やはり「ただ弱いだけ」の弱音であった。終始一番大きく聴こえてきたのは奏者の人数が一番多いヴァイオリンのパートであって、伴奏、内声、オブリガート、それらのアンサンブルといったオーケストラに必須のものはどこにいったのだろうかと考えこんでしまった。コエーリョの妙に大振りな指揮を目にしながら、耳に届いてきたのは貧しい音であったと正直に述べるしかない。
プログラム編成の意欲は大いに買いたいし、熱意も伝わってきた。だが遺憾ながらオーケストラとしての演奏技量がそれらに追いついていたとは思えない。心だけではなく、もっと技を。今回の演奏会を聴いての筆者の希望はそれに尽きる。
(2018/10/15)