東京都交響楽団第860回定期演奏会Bシリーズ|齋藤俊夫
2018年9月6日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:アントニ・ヴィト
ピアノ:シャルル・リシャール=アムラン(*)
<曲目>
リヒャルト・ワーグナー:序曲『ポローニア』
フレデリック・ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調(*)
(ソリストによるアンコール)フレデリック・ショパン:『夜想曲第20番』(*)
ヴィトルト・ルトスワフスキ:交響曲第3番
ポーランドの巨匠、アントニ・ヴィトが都響と初共演。ポーランドの作曲家、ショパンとルトスワフスキ、そしてワーグナーが1830年のポーランド反乱に共感して作曲したという序曲『ポローニア』による、ポーランド特集と知り俄然期待と好奇心に誘われて足を運んだ。
ワーグナー23歳時に初演の序曲『ポローニア』、非常にマイナーな作品だが、幕開けにはふさわしい快作であった。極めてシリアスな短調の冒頭から、長調に転じて怒涛の進撃。その進撃の合間に穏やかな弦楽が挟み込まれ、最後はポーランドの舞曲風の音楽で勝利の快哉をあげる。実に気持ちが良い作品である。ヴィトは老齢ゆえか体の動きこそややぎこちなく見えたものの、オーケストラの音、特にワーグナーのあのフォルテシモが実に輝く。ヴィトの采配、特に楽器ごとのデュナーミクの配分がいかに的確であるかということである。
言わずと知れたショパンの『ピアノ協奏曲第2番』これはリシャール=アムランの独壇場、というより、彼が自分の世界に引きこもって自分の音に酔いしれているのを40分間聴く、そんなステージであった。
「ピアニストのワンマン・ショウ」(プログラム・ノートの小宮正安氏筆)であることは承知のうえだったが、リシャール・アムランのピアノはショウ、すなわち自分の演奏を聴衆に聴かせて楽しませるもの、のではなく、自分の演奏を自分で聴いて自分で楽しんでいるようなものだったのだ。ピアノがキラキラと輝くような場面は皆無。叙情的、リリカル、センチメンタル、ではなく、自己陶酔的と言うべき。また、一瞬一瞬の自分の音に夢中になっていて、音のつながり、構築というものが度外視されていた。
彼と一心同体となって音を聴くことができる人ならば楽しめたのであろうが(実際、筆者の背後の男性は盛んなブラボーを叫んでいた)、筆者のようにまず外から音楽を眺める人間には楽しめなかった。
しかしアンコールでの独奏曲は、もとより独りのための作品だからであろう、筆者にも美しく聴こえた。シャルル・リシャール=アムラン、個性的であることは認めるが、なかなか一筋縄ではいかないピアニストであることはよくわかった。
最後に今回の目玉、ルトスワフスキ『交響曲第3番』である。筆者もヴィトの指揮による録音で親しんでいたが、そのヴィトの生演奏は録音をはるかに凌ぐものであった。
冒頭の「4音連打」「運命のリズム」(プログラム・ノートの小室敬幸氏筆)の動機の後、その動機が繰り返される間に挟まれる部分は、録音では「モヤモヤとした響き」(同じく小室敬幸氏筆)が続いているように聴こえていたが、今回は、高原の朝の鳥の声、虫の音、風にそよぐ草木の音のような静かな、涼やかな音が明晰に聴こえてきたのである。
アレアトリー技法(管理された偶然性の技法)と、確定的な通常の音楽が交じわる部分でも、ヴィト&都響が「どんな音楽を奏でているのか、聴かせたいのか」を把握し続けていることは明らか。室内楽的に断片がアンサンブルする場面も、トゥッティのフォルテシモで協和音が高らかに響く場面も、その音楽的意味、いや、音楽でしかありえない「謎」がはっきりと伝わってくる。なにがなんだかよくわからない「謎」がはっきりと伝わるというこの逆説こそ(現代)音楽の醍醐味であろう。謎が謎を呼ぶ音楽にじっと集中するというこの愉悦に勝るものはない。またシロホン始め打楽器群の一糸乱れぬ超絶技巧も特筆すべき。
終盤、調性的な響きの中から朝日が昇るように楽器が増えていき(ここの打楽器群がまた凄かった)トゥッティの「運命のリズム」で荘厳に終わったとき、会場中からどっとブラボーの声があがった。これぞルトスワフスキ、これぞ現代音楽と大悟の感覚すら味わえた。ヴィトと都響に心からの感謝を。
(2018/10/15)