サントリーホールサマーフェスティバル2018『フランス音楽回顧展Ⅱ』|藤原聡

サントリーホールサマーフェスティバル2018
ザ・プロデューサー・シリーズ 野平一郎がひらく
『フランス音楽回顧展Ⅱ』
現代フランス音楽の出発点~音響の悦楽と孤高の論理

2018年9月1日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:ピエール=アンドレ・ヴァラド
ソプラノ:浜田理恵
管弦楽:東京交響楽団

<曲目>
モーリス・ラヴェル/ピエール・ブーレーズ編曲:『口絵』(1918/87/2007)[日本初演]
フィリップ・ユレル:『トゥール・ア・トゥールⅢ』~レ・レマナンス オーケストラのための(2012)[日本初演]
ピエール・ブーレーズ:『プリ・スロン・プリ』~マラルメの肖像~ ソプラノとオーケストラのための(1957‐62/82/89)

 

何と言っても本コンサートで注目すべきは、1993年に若杉弘&都響が初演して以来日本では実に25年年ぶり2度目(!)の演奏となるブーレーズの『プリ・スロン・プリ』であろう。ある意味でブーレーズの代表作であるこの作品がわが国においてここまで演奏されていないことに軽い驚きを覚えるが、ともあれこの傑作に実演でようやく触れられるという意味で個人的には今年のサントリーホールサマーフェスティバルの中でも最重要なコンサートである。

その『プリ・スロン・プリ』の前には2曲が演奏された。1曲目はラヴェルの『口絵』をブーレーズが管弦楽用に編曲したバージョン(野平によれば、この作品をコンサート冒頭に置く意図は「この編曲を演奏することで、フランス音楽の伝統の流れ―作曲家から作曲家に受け継がれていくもの―を感じ、聴き取ることができると考えたからだ」)。
筆者もそうだが、『口絵』と言っても大半のファンがご存知なかろう。原曲は20世紀前半にパリで活躍したイタリア人作家・批評家であるリチョット・カニュードによる詩集『S.P.503 ヴァルダルの詩』の「口絵(扉絵)」として1918年に作曲された、という。これが公の場で初めて演奏されたのが1954年とのことなのでいわば埋もれていた作品だったのだろう。原曲は聴いたことがないが(音源があるのだろうか? 聴いてみたいものだ)、それはともかくこの編曲はすこぶる刺激的だ。原曲を知らないのだから比較でどうこうの話ではなく、このたかだか2分の小曲が単体で面白いということだ。
解説によれば、15小節からなるこの曲は8分の15拍子と4分の5拍子という異なった拍節が同期するポリ・メトリック、さらに重なり合う5つのオスティナートには五音音階が多用されている。ブーレーズのアレンジでは元々の曖昧なメロディが複数の楽器=音色に分割されて極めて点描的な様相を呈する。それはシェーンベルクの音色旋律のようでもあるが、つまりはセリー的なのである。これが先述したオスティナートの「可変的なリズム周期による分割」というこれもブーレーズのアレンジによってより曖昧な拍節構造を生む。そもそもラヴェルにしては何だか変な曲だけれども(原曲未聴だがこれはもう明らかに変なのは分かる)、それをブーレーズがより変にしたといったところか。
真面目に書けば原曲構造の異質性をより露に露呈させている。編曲という仕事にはあまり興味を示さなかったブーレーズ、との記述が当夜のプログラムにあるけれども、わざわざこのラヴェルの曲を編曲したということは―しかもドメーヌ・ミュジカルで他ならぬブーレーズの手によって初演された1954年から30年以上経った1987年に最初のアレンジが施され、さらに2007年は弦を拡大した形に再アレンジされている―、よほどこの曲とブーレーズの感性が共鳴するのであろうし、それは分かるような気がする。濃い2分。

2曲目はブーレーズの後続世代であるフィリップ・ユレル(1955-)の『トゥール・ア・トゥール(順々に)Ⅲ』~レ・レマナンス(全4曲、約1時間からなる連作の3曲目)。日本でこの作曲家の管弦楽曲が演奏されるのは今回が初だという。当日のプログラムによるとその経歴は「…パリ国立高等音楽院でマレクに作曲、ジョラスに分析を学び、1983~85年にミュライユから個人レッスンを受ける。80年代末にはIRCAMの研修に参加し、ヴィラ・メディチに滞在。91年、ピレール=アンドレ・ヴァラドとともにアンサンブル・クール=シルキュイを設立。97年から2001年までIRCAMで教鞭を執り、13年から17年までリヨン国立高等音楽院教授」。ここにミュライユから個人レッスンを受ける、とあることからも想像されるが、ユレルはこの作曲家やグリゼーらの第一世代を受けての「スペクトル楽派第二世代」を代表する作曲家と見做されている。それほど多数の曲を聴いた訳でもないので一般化は危険ながら、例えばミュライユの『ゴンドワナ』 であったり、もしくはグリゼーの『音響空間』(この2曲とも過去サントリーホールサマーフェスティバルもしくは東京オペラシティの『コンポージアム』で演奏されていて筆者は双方聴いており、録音―むろん別演奏だが―にも耳を通している)といったこれらの作曲家の代表的な管弦楽作品と当夜のユレル作品を比較した場合、誤解を恐れずに言えばユレル作品の方がより自由で聴き手への「サービス精神」に満ち、敢えて言えば聴き易い。スペクトル解析や理論的な倍音の構築などの方法論の上にリズム的あるいは各声の自由な展開を見せたりと普通の意味での「エンタメ的要素」が加わった、などと書いたら乱暴に過ぎるか。しかし聴感上はそのような感じなのだ。様々な楽器が混合されてクラスター的に織り成される音色それ自体の愉悦感。しかし面白い曲であるとは思いながらも、本作の作曲年は2012年であって正に「近作」である。そう考えた時には本作に既知感もしくは既視感というようなものを感じるのは否めまい。エンタメ的要素は強い言い方をすれば退嬰的とでも形容すべき聴後感にも結び付く。いわゆる現代音楽作品を耳にする場合はこういった歴史意識をも併せて聴いているし、またそういう風に聴くしかない。もっとも、それがこの手の作品に接する愉しさでもあるのだが…。コンセプチュアルで音にも批評性があってかつ美的に面白いなら◎だが、そうではない場合の評価軸は多様だ。コンスタティヴな作曲/演奏行為とパフォーマティヴな次元での演奏家/聴き手双方の化学反応という問題は現代作品でより大きな振り幅を見せる。

閑話休題。

いよいよ『プリ・スロン・プリ』である。ステージを見て思ったのは意外にも相当な大人数なのだなという素朴な感想。オケは大雑把に記せば下手側に弦楽器群、上手側に管楽器群。指揮者の前にはそれを取り囲むようにハープ、ピアノ、チェレスタ、ギター、マンドリン。打楽器は舞台後方。
本日の演奏前にはブーレーズの3種の録音に耳を通して来たが、演奏精度という点では録音の方が数段もシャープ、音像が明快ながら(ヴァラドの指揮はリズムが甘く滲んだり縦の線が意外にも緩む箇所が散見されるが、これはオケの不慣れも当然あるだろう)、それでも各楽器の関係がもたらす立体感や階層性、繊細なニュアンスというものは実演会場において生身の物質感を伴って聴き手の耳と体にまさに「飛び込んで」来る感があり、これは録音では分からなかった感覚だ。ソプラノの浜田理恵も当初の不安をよそに大健闘。やはりこういう作品は実演に接するにしくはないと痛感したのだが、正直に書くならば折に触れ聴いて来たこの曲の美しさは何となく理解できるようになったとは言え、やはり筆者には曲りなりにすら「理解できる」というようなものではない。しかし、書き手/主体が拡散してしまいそれが中空に雲散霧消してしまうような透明性を孕んだ特異なマラルメの詩句を音楽化するに際し、それに負けないほどの強度を音楽に孕ませて対峙したブーレーズは改めて凄いとしか言いようがない。マラルメのこれらの詩句にはこの音楽しかない、と聴き手に思わせてしまう力業。その力業は徹頭徹尾ブーレーズ的でありながらしかしそれがそのままマラルメにも重なり合い、最後にはこの両者すら消えてそこにはただの匿名的な「詩」と「音楽」だけがあるような世界を現出させた。この何という不可思議な矛盾。この世界が立ち現れるのをサントリーホールで実際に体験できたことはまたとない貴重な機会であった。次の演奏がまた25年後(!)などということにならないよう祈る。コンテンポラリー作品は実演で「打たれる」という体験が決定的だからなおさら。

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 (2018/10/15)