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こんにゃく座「イヌの仇討 あるいは吉良の決断」|丘山万里子

オペラシアターこんにゃく座「イヌの仇討 あるいは吉良の決断」
おぺら小屋106

2018年9月17日 吉祥寺シアター
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 前澤秀登/写真提供:オペラシアターこんにゃく座

「イヌの仇討 あるいは吉良の決断」新演出
原作:井上ひさし
台本・作曲:林光
演出:上村聡史
音楽監督:萩京子
舞台監督:大垣敏朗

<歌役者>ろ組
吉良上野介:高野うるお
清水一学:北野雄一郎
大須賀治部右衛門:金村慎太郎
榊原兵左衛門:富山直人
牧野春斎:沖まどか
お三さま(御女中頭):岡原真弓
お吟さま(行火):山本伸子
おしの(お犬付きお女中):小林ゆず子
おしん(同):飯野薫
砥石小僧新助:佐藤敏之
黒衣:島田大翼、泉篤史

<演奏>
ヴァイオリン:手島志保
ピアノ:五味貴秋

 

泣いた。
ラスト、吉良を守る3人の侍と坊主が、一足お先に!と隠れた物置から飛び出す、続く吉良が舞台上段、覚悟の死へと身を躍らせる、燃える朱に漆黒のシルエットが、眼を射る、胸を射る、その時、たまらず。
大石、おぬしの本当の狙いはなんじゃ、の問いの果て、上野介首が大逆隠し、忠義でも仁義でもなくお上への弓引きと悟り、ならば我もまたおぬしに討たれ死武者に。
決めた吉良、その意を汲み先立つ男たち、彼らの最後にあっぱれ感涙、などというわけでない、けれども何かがこみ上げたのだ。
それは何か。
井上ひさしの『忠臣蔵』は吉良、大石の二人の男、互いの胸の奥の奥をまさぐる路程を物置一間でのドラマに凝縮、仇討を装った「大逆」(吉良=お上の「イヌ」を討つ)に全てを結節させる力技。
歴史を射抜く眼光はむろん原作当時(1988年)、また今日を貫き通す胆力に満ち、それを音楽は、歌役者は、新演出はまっすぐ届けた、これぞこんにゃく座、と膝を打つ。
終幕にくっきり浮かんだシルエットは、井上の、林の、そして今これを新たに現前させる「座」の創作の根底にあるもの、すなわち創作とはいつの時代も、この世と時と人とに深く関わり深く見つめ、そこから何かをえぐり出す、そういう営為であり、背後には常に「問い」が宿る、それをぴしりと示してくれた。
かつ、問いには創作者たちそれぞれの批評精神が必須、それがこうして脈々と継がれている。
それらが一挙に筆者に押し寄せた、そういうことだ、涙は。

15年ぶりの再演、全2幕。筆者は初演を見ていないから演出(上村聡史、初演出)どうこうは言えぬ。が、シンプルで要領を得たものであったと思う。こんにゃく座には独特の色(何がし押し付け臭)があり、それが鬱陶しいこともあるのだが、このステージはこざっぱりと余分なく、よく練れていた。ちょっとした笑いのツボが透いて見えたりこなれていなかったりが無い(演者さばきのうまさ)。ゆえにかっちり引き締まった。
長持ちに隠れた盗人新助が一同に語る世間の風評、唯一戸の内外を出入りする坊主春斎が伝える浪士の動きに、徐々にことの真相、大石の真意を知る吉良。
新助は世間、お三はお家、お吟は夫恋、家来衆は主、主は綱吉・帝とそれぞれ抱える想いあり、それを巧みに交錯させ、人の生きる道として、では何が真実大事なのかを問いかける。
磨き抜かれたセリフ、極小器楽(pf,vn)に「唄うふし」、演者の歌唱と身技の総体に弛緩は無い。中でも出色は新助、お三、春斎で、場を見事に盛り上げる。
吉良がいささか線細くはあったが、それが一つの陰影となったとも言え。
林の筆は要所にソロ、デュオ、アンサンブル、とオペラの定型を押さえつつ、言葉とふしにこれらを生かす音を撒く、その熟技に改めてさすが、と。

忠義の美談を権勢(お上、帝)への反逆と読むこの作品、だが、最後の吉良のセリフはこうだ。
「さあ、上野介はこれより生きに行くぞ
人は死して生き得る、生かすは「後の世」。

正義・不義、真偽正誤は立場立場でどのようにも変化、歴史は常に権力に都合よく書かれ、書き換えられても行く。
それでも変わらぬものは何か。
真の創作にはこの問いと、それを含んだ作者の「解」が仕込まれている。
解を逃げては問いは立たぬ。問いなきものは創作とは言えぬ。あとはおのおの考えよ。
批評も然り。
この舞台、筆者の背中をパシッと叩きもしたのだ。

 (2018/10/15)