Menu

サントリーホール サマーフェスティバル2018「フランス音楽回顧展Ⅰ」|藤原聡

サントリーホール サマーフェスティバル2018
ザ・プロデューサー・シリーズ 野平一郎がひらく
「フランス音楽回顧展Ⅰ」昇華/飽和/逸脱~IRCAMとその後~

2018年8月27日 サントリーホール ブルーローズ
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
写真提供:サントリーホール

<演奏>
2台ピアノ:グラウシューマッハー・ピアノ・デュオ※1※3
打楽器:藤本隆文/安江佐和子※1
チェロ:山澤慧※2
ピアノ:秋山友貴※2
電子音響:ホセ・ミゲル・フェルナンデス/マキシム・ル・ソー/フィリップ・マヌリ※3

<曲目>
トリスタン・ミュライユ:『トラヴェル・ノーツ』-2台のピアノと2群の打楽器のための(2015)〈日本初演〉※1
ラファエル・センド:『フュリア』-チェロとピアノのための(2009/10)〈日本初演〉※2
フィリップ・マヌリ:『時間、使用法』-2台のピアノと電子音響のための(2013-14)〈日本初演〉※3

 

恒例のサントリーホール・サマーフェスティバル、今年のザ・プロデューサー・シリーズは野平一郎を迎えての自作オペラ『亡命』と、当然と言うべきか「フランス音楽」特集。「フランス音楽回顧展」と題されたその特集コンサートは2回もたれたが、Ⅰは「昇華/飽和/逸脱~IRCAMとその後~」とのサブタイトルが付されている。主催者側にそういう意図があったかどうかはともかく、聴いた後の印象としては「昇華」→ミュライユ、「飽和」→センド(正に「サチュラシオン」楽派)、「逸脱」→マヌリ、といったところか。メシアン→ブーレーズ→IRCAMの連鎖の後の3人、ともあれここ10年以内に作曲されたフランスのコンテンポラリー作品に実演でまとめて触れられることに感謝。

1曲目はミュライユだが、作曲者のプログラムノートによれば「空想の乗り物に乗って(目に、あるいは、耳に現れる)空想の風景を旅する」。ロンド的な構造を持ち、ロンドのルフランのように自由に間を空けて戻って来る部分(「旅」)、そしてロンドのクープレのように絶えず変化していく部分(様々な「風景」)からなる。ここでは2台ピアノでの第1と第2の対位法的なピアノの掛け合い、そしてそれにスパイス的に絡まって来る多種の打楽器との協和あるいは不協和のコントラストの度合いの変化が面白かったのだが、曲調にさらなる変化があれば尚耳が惹き付けられたかも知れない。作曲者が書いているほどには音響の遷移の妙味を味わうには至らず。暴論の謗りを受けるかも知れないが、最初こそその音響に即物的な衝撃を受けるのだが、聴いているうちに次第に耳がこういう音響に慣れて来るとどうにも同じような反復に聴こえて来てしまうのはいかんせん仕方ない(筆者がより差異を聴き分ける耳を持っていればもっと繊細に楽しめたのかも知れないが、それは分からない)。音楽それ自体の強度に問題がある(と思った)ので、そこに意味作用が見つけられなけばそれは反復のための反復になる、少なくとも筆者にとっては。

そこへ行くと第2曲目、センドの『フュリア(熱狂)』ははるかに刺激的。特殊奏法のオンパレード、その音響は暴力的ながら実に愉悦感に満ちている。内部の弦を棒でこする、重量のある金属製の錘を滑らす、プリペアド・ピアノ化させる、両手で弦をこねくり回すピアノ、洗濯ばさみのようなもので弦を挟んで音の共鳴を抑える、容赦ない圧力でギシギシと弾き倒しまるですりこぎ棒と化す弓(2本用いていた)、両手を用いてのギター風に急速なアルペッジオ、手で胴体を叩くチェロ。PAを用いていたためにこれらの効果がより明確に客席まで届いて来たのだが、不意打ち的にこういった音響が次から次へと登場し聴き手は一時も安心できない。作曲者はこれらを通して何を目論んでいるのかは正直よく分からないが(苦笑)、例えば同様に楽器から通常の楽器らしい音を出させないラッヘンマンと対比させて考えるに、ラッヘンマンが異化による意識の変革を目指しているとすればセンドはよりパンクでエモい(敢えてこんな言葉を使うが)。センドのプロフィールを見ると「政治的主張の強いハードコア・ラップのグループで活躍した」とあり、またセンド自身の楽曲解説によれば「音に成りきらない音の状態や潰れた音が出てくる速度を緩めたり、また強度を減じたりすることを探求する」との記述がある。ここで飛躍したことを書けば、センドの音楽はプロテストと絶対的な自由を希求しているのだろう。既存の価値と体制を疑うこと、そして単純な意味作用に還元されない物質性を露呈させて聴き手を戸惑わせること。だから作品の力が夾雑物なく直截に届くのだ。この日最高の聴き物は疑いなくこれだった。尚、曲名は『熱狂』だが山澤と秋山の若く素晴らしい奏者はいかにもクール、顔色1つ変えずに暴れ回っていてこれもまた逆にエモい。

休憩を挟んではマヌリ作品。とにかく長い。1時間。最初にこんな書き方をしたということはその長さをあまり楽しめなかったということなのだが、2台ピアノに複数のスピーカーが会場に設置され、ライヴエレクトロニクス加工された2台ピアノの音響が「生ピアノ」と絡み合う。会場を飛び交うその音に最初は面白さを感じたが、これも演奏時間の長さもあろう、次第に飽きてくる。そもそも音楽自体が単調だが、シュトックハウゼンの『マントラ』を知っている耳にはなおのことそう聴こえてしまう。最後にライヴエレクトロニクスを担当したホセ・ミゲル・フェルナンデス、マキシム・ル・ソーと作曲者のフィリップ・マヌリ御大がステージに登場、満場の喝采を浴びていた。

コンテンポラリー作品を聴くとは作曲者の「時代との切り結び方」を聴く、と同義だろう。それは古典作品だってそうなのだが、コンテンポラリーは「今現在」のものだ。それが切実さを帯びているのかある種のマニエラと化しているのかはより直截に伝わって来ると思う。

関連評:サントリーホール サマーフェスティバル2018「フランス音楽回顧展Ⅰ」|平岡拓也

 (2018/9/15)