ネルソン・フレイレ ピアノ・リサイタル|谷口昭弘
ネルソン・フレイレ ピアノ・リサイタル
(トリフォニー・ホール・グレイト・ピアニスト・シリーズ2018)
2018年 8月1日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 三浦興一/写真提供:すみだトリフォニーホール
<演奏>
ネルソン・フレイレ(ピアノ)
<曲目>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2《月光》
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
ブラームス:4つのピアノ小品 作品119
(休憩)
ドビュッシー:《映像》第1集より<水の反映>
ドビュッシー:《映像》第2集より<金色の魚>
アルベニス:組曲《イベリア》第1集より<エボカシオン>
アルベニス:《ナバーラ》
(アンコール)
パデレフスキ:《ノクターン》
グリーグ:<トロルドハウゲンの婚礼の日>(《抒情小曲集》より第8集作品65)
ヴィラ=ロボス:《ブラジルの子供の謝肉祭》より第1番<小さなピエロの小馬>
グルック(スガンバーティ編):《精霊の踊り》
ブラジル出身のピアニスト、ネルソン・フレイレのリサイタルは、重厚なドイツ物から色彩鮮やかなドビュッシー、香り高いアルベニスまで、どんな性格の音楽をも包み込む度量の広さを持った音楽家であることを実感させた。そして、いずれの作品においても聴き手を納得させる表現力を持った実力派であることを確認することができた。
ベートーヴェンの《月光》では、どっしりとしたベースラインを鳴らしながら、麗しい旋律を、ほんのりと暖かい灯の中に紡いでいく。秘めやかな暗闇を照らすかのように。ラプソディックな第2楽章でそっと息を吹きかけるような遊びが展開された後、第3楽章では、ダイナミクスを「強弱」としてだけではなく、光の輝きの度合いにも結びつけた。ピアノをオーケストラのごとくダイナミックに鳴らしつつ、あちこちの声部から流れ出る諸々の旋律の美しさにも耳を傾けていた。
《月光》に比べて、より音楽の骨格が明確に組み立てられた第31番のソナタでは、輝かしい冒頭と、溢れる泉のごとくみずみずしく提示される旋律に引き込まれた。そして薄いテクスチャの中に編み込まれた細やかな楽想をフレイレは大切に奏で、育てていく。手際よいテンポの中に畳み込む音型が中心となって進む短い第2楽章においても、フレイレは旋律的に聴かせる部分を意識的に選び取り、全体の中にうまく融合していた。
第3楽章は、切れ切れになった響きと架空のレチタティーヴォをあしらったドラマがまず展開される。しかし心が清らかにされるフーガ主題が登場すると、そこに増し加えられるたおやかな音と、隆々とした盛り上がりに耳を奪われた。そして「嘆きの歌」の後、反行主題が登場する直前の猛烈な忘我的ト長調の連続で度肝を抜いた。
続いて演奏されたブラームスの4つのピアノ小品Op. 119では、静かに舞い降りる音に淡いリリシズムを織り綴る第1曲、ざわめく音型から湧き出るものを追求しブラームスの先進性を体感させる第2曲、リズムの戯れから始め和音の細やかな変化による光を表出した第3曲、旋律をダイナミックに明確に弾ききる第4曲と、それぞれの小品への多彩なアプローチを聴かせた。音をしっかりと構築し、その造形美を希求する、ブラームスらしい音楽だった。
ブラームスにつづいてドビュッシーを聴くと、もちろん和音の使い方など作風の違いは明確だが、旋律になるかならないかの音型で聴かせるという点では、前者から後者へ継承されている部分があることを実感する。特にアルペジオの美しさに支えられた<水の反映>では、フレイレの端麗なピアニズムがそのような継承性を浮き彫りにする。<金色の魚>の場合は、アルペジオであっても単なる「伴奏」ではないし、様々な音型のなかに旋律的要素が絡んでおり、こちらは彼の演出の面白さが際立っていたと言える。フレイレのピアノは、ドビュッシー作品の中でも、イマジネーションをかき立てる楽曲にとりわけ威力を発揮するのだ。
アルベニスの<エボカシオン>では、瞑想的な流れのなかに旋法的な和音が配され、立ち止まりながら考えを巡らす瞬間が面白い。《ナバーラ》では洒脱さ、熱さを残しつつ、それでいて勢いに任せず、あくまでもピアノの美を引き出そうとする姿勢に唸らされた。
アンコールは内声の旋律をしっかりと聴かせながら明瞭に語りかけるパデレフスキの《ノクターン》、繊細な流れと真に迫る饒舌さによるグリーグの<トロルドハウゲンの婚礼の日>、最後まで歌の魅力をピアノで示したグルックの《精霊の踊り》など。これらを聴いて、ネルソン・フレイレが楽譜に書かれたどんな音符にも真摯に向かい、得たものを聴き手に伝える一流の芸術家であることを再確認してホールを後にした。
(2018/9/15)