京都市交響楽団 第626回 定期演奏会 |能登原由美

京都市交響楽団 第626回 定期演奏会

2018年8月26日 京都コンサートホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)

<演奏>
指揮:高関健
独唱:木下美穂子(ソプラノ)
   小原啓楼(テノール)
   大西宇宙(バリトン)
合唱:京響コーラス(合唱指揮:浅井隆仁)
   京都市少年合唱団(合唱指揮:津幡泰子)
管弦楽:京都市交響楽団

<曲目>
ブリテン:戦争レクイエム op. 66

 

第一次世界大戦の終結から100年を迎える今年は、欧米各地でそれを記念する行事が目白押しだ。京響が——意識してなのかそうでないのかは不明だが——8月の定期演奏会で取り上げたブリテンの《戦争レクイエム》も、そうしたトピックスと決して無縁ではない。大戦勃発当時はまだ幼少だったブリテンにとって、その戦争による直接的な被害はなかったにせよ、やがて新たな世界大戦の兆しが見え始めると、兵役拒否を顕にして反戦の意思を示すのである。

その第二次世界大戦でドイツ軍の空爆により破壊されたイギリス中部の工業都市、コヴェントリーの大聖堂の献堂式のために作曲されたレクイエム。そのテクストは、通常のレクイエムのテクストとは大きく異なる。つまり、ラテン語のテクストの間に、イギリスの詩人、ウィルフレッド・オーウェンによる反戦詩が挿入される形で構成されている。そのオーウェンは第一次大戦で前線に駆り出され、フランスの西部戦線で戦死している。今年はオーウェンの没後100年でもある。

だがそういった作品の背景は余計な先入観を与えるだけかもしれない。プレトークで指揮者の高関健は、イギリスを訪れた時にコヴェントリーのあの大聖堂にも立ち寄ったと述べていたが、今日のこの演奏では音楽がウエットになることは決してなかった。彼の演奏スタイルがそうであるように、常に作品から一定の距離を置き、冷静さを保つ。筆者としては、指揮者自身の本音というか、生身の姿も少しは見たいと思うのだけれども・・・。

だがこの演奏の場合はそれが功を奏していた。つまり、全体を鳥瞰するかのような彼の立ち位置により、楽曲全体の構造とテクスト構成の意味付けがより深まることになったのである。すなわち、オケとソプラノおよび合唱、室内オケとテノールおよびバリトン、そして少年合唱という、3つのグループによって構成されるレイヤーの違いを露わにさせることで、死に対峙する兵士の絶望と救いを求める祈りの重層性が鮮明になった。

死者のための祈りを歌うソプラノおよび合唱パートは、感傷や情感を排した即物的な表現に徹底する。音節ごとの区切りが明瞭なため、言葉の意味や内容の表現よりも、音素としての響きやリズム的な要素が強調されることとなった。テクストの意味内容は不鮮明になるが、あえてそうした唱法を選択したのだろう。というのも、そのドライな響きが、男声独唱と室内オケが歌う兵士の嘆き——オーウェンの詩にもとづく——を一層深めていく。果たして不条理な死に救いはあるのか…。そうしたなかで、客席2階席に配置された少年合唱の、天上から降り注ぐ透明な響きが死に抗う兵士に一筋の救いの光をもたらすかのようだった。これら3つの世界がポリフォニーを織りなしながら進んだ挙句、最終曲〈リベラ・メ〉で融け合った際の、その響きの融合が照らし出す「和解」——敵対する兵士達の、あるいは神と人間の——、その深遠さには瞠目した。

一つ残念だったのは、男声ソロがいずれも不安定だったことだ。伸びのある声で人間味のある表情豊かな音楽を作り出していたのだけれども、音程が上ずったり、逆に上がりきらない箇所もあり、特に高音部になるとおぼつかなくなる。とりわけ、〈オッフェルトリウム〉などでテノールとバリトンの二重唱部分になるとそうした音程の不安が一層高じて、人類の運命をも呪ったオーウェンの詩の説得力を今ひとつ欠くことになってしまった。

さて、今回の演奏での指揮者のあり方は、やはり高関のように全体を俯瞰する立場を徹底することなのかもしれない。そのことで、音楽自体に内包される意味合いが鮮明になる。指揮者も含めた奏者と作品との距離感について改めて考えさせられた。

 (2018/9/15)