酒井健治プロデュース公演 #02b Gala|平岡拓也

酒井健治プロデュース公演 #02b Gala – 日本帰国記念巡回個展

2018年8月10日 東京オペラシティ リサイタルホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
写真提供:酒井健治

<演奏>
ヴァイオリン:成田達輝
ピアノ:萩原麻未
三味線:本條秀慈郎
ギター:鈴木大介
ホルン:福川伸陽
ピアノ:三浦友理枝
チェロ:山澤慧
ソプラノ:太田真紀
HANATSUmiroir(フルート:大久保彩子 クラリネット:トマ・モノ パーカッション:オリヴィエ・モーレル)
指揮:鷹羽弘晃

<曲目(全曲:酒井健治作品)>
カスム(2013)ヴァイオリンとピアノのための
ウェバリング(2017)三味線ソロのための
エーテル幻想(2017)ギターソロのための
告別(2014)ホルンとピアノのための
オスモシスI(2011)5人のアンサンブルのための
私は他人である(2012)ソプラノ独唱のための
ハウリング/ワーリング(2017)フルート、クラリネット、パーカッションのための
秋の協奏曲(2014)6人のアンサンブルのための

 

ヨーロッパを拠点に作曲活動を展開していた気鋭の作曲家・酒井健治が、今年度日本に帰国。京都市立芸術大学で教鞭を執り始めた。それを記念し、兵庫・名古屋・東京の三箇所で個展を開催。その東京公演に赴いた。まず驚くべきは面々の豪華さである。いわゆる「現代音楽のスペシャリスト」も含め、第一線で幅広く活躍する若手演奏家(しかもその多くが被献呈者というのがまた贅沢)が顔を揃える。この時点で早くも、酒井の音楽が弾き手の好奇心を掻き立てていることが容易に想像できるわけだ。

まずは「カスム」。日本語の「霞む」ではなく英語の“Chasm(亀裂、隔たり等)”の方だ。空間を切り裂く俊敏な動機のユニゾンに始まる音楽は、個展の冒頭を飾るに相応しい鮮烈さを有している。成田達輝の弓さばきが鋭く語り、萩原麻未のピアノが負けじと応じる。冒頭音型の回帰やそれぞれの奏者に与えられるカデンツァなど古典的な形式を有するが、些かの旧さも感じさせないのは酒井の筆と両奏者の冴えだろう。

続く「ウェバリング」「エーテル幻想」はいずれもソロ作品。ここに来て「撥弦楽器のソロ作品2つをデュオ作品で挟み、対称を形作る」というプログラミング意図に気づく。奏者2人の音楽性がぶつかり絡み合い、豊かに発展してゆくデュオ作品に対して、酒井のソロ作品は内省的な趣だ。伝統的な書法は先述の「カスム」に通ずるのだが、楽音と空白の入れ替わりの中で、音楽が波状に空間に拡がってゆく点がソロ作品特有の個性である。三味線、ギター、それぞれの楽器の持ち味を活かした空間性の音楽が面白い。

再びデュオで「告別」。ベートーヴェンの同名ピアノ・ソナタ冒頭の和音がモティーフとして使われている。微分音やゲシュトップ奏法といった高い技量をホルン奏者に要求するこの作品は、三浦友理枝と福川伸陽により奏された。名手同士の対話により生まれる鋭い音像、それぞれに与えられたカデンツァでの個性の発揮はやはり冒頭「カスム」と共通しており、プログラム前半をコンセプチュアルかつ鮮やかに締め括った。

これより後半。一曲目の「オスモシスⅠ」はラジオ・フランスの番組のために書かれたという作品で、5楽章構成をとる。どの楽章も演奏時間は約2分なのだが、これは月曜日~金曜日で毎日異なる2分間の作品を放送するという番組のコンセプトに従った形だ。2分という時間的制約の中で5人のアンサンブルが共鳴し、巧みに起承転結が表現されるさまは見事だ。鐘の模倣のような音像も聴こえる。

後半唯一のソロ作品である「私は他人である」は、アルテュール・ランボーが少年時代の先生に向けて書いたいわゆる「見者の手紙」中の「私は他者である(Je est un autre)」という一節のみをテクストとしている。テクストの分解と再構築が3分強の中で行われており、原文を聴取することは不可能となっている(瞬間的にフランス語の断片が聴こえることはあるが)。喉を辛そうに唸らせる軋みから声楽的な発声までを自在に操る太田真紀のアクロバット的プレイに驚嘆した。2年前の暮れに彼女で聴いたシェルシ「山羊座の歌」の強烈な音世界を思い出さざるを得ない。

2部構成の「ハウリング/ワーリング」は、打楽器にフルートとクラリネットという編成。その中でもコントラバスフルート、コントラバスクラリネットの存在感が(視覚的にも)大きい。大地の呼吸のような第1部(冒頭に置かれた超低音楽器2つの呻きと大太鼓のパルスが耳を引き寄せる)、幅広い音域を旋回(Whirling)する第2部という構成に、どこか「春の祭典」の遠影を見たようにも思う。HANATSUmiroir(ハナツ ミロワール)が演奏。

当夜の締め括りとなる「秋の協奏曲」。この曲もランボーの詩世界と重ねられている。チェロのAの音に始まり、ヴァイオリンがCisを加えていき柔らかな三和音に達する。こんなに聴き易くて良いのだろうか、と思っていると次第に擦り・軋み・唸りも混じっていくのだが、これまで聴いてきた作品同様に明解な形式だ。詩作を辞め放浪するランボー、など具体的なイメージ付けもプログラムでは語られているが、仮にそれを排しても充分に音楽の指向性は感じられるだろう。

「秋の協奏曲」への楽器転換の時間を利用して、客席で聴いていた酒井がステージに上がり、今回のプログラミング意図や演奏者などについて少し語った。彼の語りは大変饒舌で、秘密主義的なところは些かも感じられない。また終演後は当然演奏家と共に答礼するわけだが、まさに「ガラ」というに相応しい豪華な演奏者たちが酒井を盛んに讃え、最後は彼一人で拍手を受けるように仕向けていた。愛されている作曲家だ。

「理論よりも音楽の感興を前面に」「古典的手法」「アンサンブル曲における楽器間の響きの秀逸なブレンド」「無国籍的な浮遊感」―いずれも、当夜彼の音楽に感じた要素である。濃密な作品を沢山聴いたはずなのに聴後感はむしろ爽やかだったのは、これらの要素のおかげだろう。峻厳でズシリと重い印象を与える孤高の作曲家にはならず、自らの音楽を屈託なく提示する。これは紛れもなく酒井健治の「個性」だと考える。欧州から日本へ戻り、彼は今後どのような音楽を書き、発信していくのか。私たちの時代の作曲家として、その活動を注視したい。

(2018/9/15)