モイツァ・エルトマン ソプラノ・リサイタル|平岡拓也
2018年7月3日 紀尾井ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ソプラノ:モイツァ・エルトマン
ピアノ:ゲッツ・ペイヤー
<曲目>
メンデルスゾーン:新しい恋 Op. 19a-4
ふたつの心が離れると Op. 99-5
ズライカ Op. 34-4
恋する女は綴る Op. 86-3
葦の歌 Op. 71-4
月 Op. 86-5
ズライカ Op. 57-3
歌の翼に Op. 34-2
さいしょの菫 Op. 19-2
あいさつ Op. 19a-5
花束 Op. 47-5
春の歌 Op. 47-3
モーツァルト:満足 KV349
すみれ KV476
寂しい森で KV308
魔法使い KV472
ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき KV520
静けさはほほえみつつ KV152
歓喜に寄す KV53
春へのあこがれ KV596
ラウラに寄せる夕べの思い KV523
演奏会用アリア「さらば我が麗しの恋人~とどまれ、いとしき人よ」 KV528
~アンコール~
メンデルスゾーン:夜の歌Op.71-6
モーツァルト:歓喜に寄す KV53
モーツァルトとメンデルスゾーンという、シンプルにして歌い手の実力が如実に現れるプログラム。ドイツ語圏の歌曲というとシューベルトを筆頭にシューマン、ブラームス、R. シュトラウス、ヴォルフが頻繁にプログラムに載るが、案外珍しい選択ではなかろうか。
清楚な衣装に身を包んだエルトマンは、ペイヤーと目配せをしつつどんどんと歌っていく。全て暗譜で、かつ曲順も覚えている。きっとピアノの序奏や歌い出しですぐに曲世界に入り込むのだろうが、レパートリーとしてしっかり歌い重ねている証拠ではないか。あっぱれだ。ペイヤーのピアノもコロコロと可愛げに、絶妙の呼吸で歌を支える。
前半のメンデルスゾーン、『ズライカ Op. 57-3』の後にごく短い水分補給をした以外は続けて歌われる(この間に退出者も出たので丁度よかった)。12の歌曲中、『さいしょの菫』の2連目が唯一無伴奏で入る箇所だが、その箇所も完璧な音程で、かつピアノ共々歌詞にふさわしくやや不穏な空気感を表出する。『花束』最後の連のリフレインではsprichtのchtを長めに名残惜しく保ち、後奏へ受け渡す心憎さ。“Der süßeste Frühling spricht(甘さいっぱい 春が語っているのだから)”という詞の通り、溢れんばかりの、しかし清廉な甘さを伝えた瞬間であった。最後に置かれた『春の歌』は高音域に達するが、これも無理なくあくまで伸びやか。全体を通して、上行して伸ばした後にやってくる下行での丁寧さ等、細部まで非の打ち所のない歌唱だ。
モーツァルトでは、有節歌曲のスタイルをややはみ出した曲の特徴を存分に活かす。『すみれ』の童話ふうの歌い口も可愛げだが、擬人化されたすみれの心情吐露にはどきりとする。自分(すみれ)の存在を気にも留めない羊飼いの娘により無残に踏み潰され、それでもなお「あの子に踏み潰されるのなら死んでもいい」と口にするのだから。明るさの影に見え隠れする生の儚さを示唆する箇所であるが、その細やかな歌い分けも万全だ。『魔法使い』も同様に、オペラでも映える彼女の巧みな感情描写が歌曲の範疇で絶妙に展開される。最後の“Aus mir zuletzt geworden sein!(いったい私はどうなっていたでしょう!)”を歌い終えて軽く客席に肩をすくめてみせた彼女の茶目っ気には思わず笑みがこぼれ、拍手をしたくなったほどだ。一転、格調高い言葉と音楽で充たされる『歓喜に寄す』では、冗長さを避けるため連の省略が通例どおりなされた。エルトマンの歌なら何連でも聴きたいと思うけれど!
単純なリフレインではなく、所々に跳躍やメリスマを織り込むモーツァルトだが、それらを無理なく軽やかに聴かせる技術は一級品だ。高域の艶やかな表情に加え、全音域の音色の統一感、そして声楽的な伸びやかさと正確な音程―挙げ出すとキリがない。一度答礼を挟み、最後に歌われた演奏会用アリア『さらば我が麗しの恋人~とどまれ、いとしき人よ』でも、劇的な詞と歌が一切剥離することなく締め括られた。
シューベルトやヴォルフ、シュトラウスら後々の作曲家に比べると、モーツァルトやメンデルスゾーンの歌曲は幾分シンプルに感じられるのは事実だろう。しかしながらその中に幾重にも織られた奥深い歌の魅力を、エルトマンとペイヤーの細やかな演奏は描き出してくれた。『すみれ』の歌世界で、羊飼いの少女は可憐な花に目もくれなかった。しかし紀尾井ホールに当夜居合わせた我々は、美しい歌曲の数々を素通りするどころか、それらを心ゆくまで堪能出来たのである。
(2018/8/15)