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小人閑居為不善日記|家族の肖像、孤独の肖像――《万引き家族》と《未来のミライ》|noirse

家族の肖像、孤独の肖像――《万引き家族》と《未来のミライ》

text by noirse

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遅ればせながら《万引き家族》を見に行った。日本映画として21年振りとなる、カンヌ映画祭の最高賞パルムドール受賞作だ。

冒頭からネガティブなことを言うと、是枝裕和監督の映画は、わたしにとっては「感心はするけど感動はしない」(©山本精一)ものだ。厳格な演技指導や入念なカット割よりも、役者同士の自由なかけ合いや緩やかな時間を描くことを優先させる演出は、ドキュメンタリー畑出身らしいと言えよう。だがこれは1980年代に台湾の侯孝賢やイランのアッバス・キアロスタミらが得意とした手法で、既視感が強いし、彼らに並ぶほどの目覚ましい達成があるわけでもない。

その代わり是枝は、積極的に子役を配し、一方で社会的なテーマを盛り込んでいくという戦法を取った。カンヌはもともと《誰も知らない》(2004)で是枝を「発見」した自負もあり、一定の是枝人気がある。さらにここ数年のカンヌは、「社会派」な作品をより評価する傾向がある。その上で子供の健気な姿を添えれば――「どんな名優でも子供や動物には適わない」とよく言う――「是枝びいき」な映画人の心を動かすには十分だろう(そもそも欧米の映画人にとって、日本映画とは未だにエキゾチックなものなのだ)。

これは批判ではない。どうすれば自分の長所や関心のあるテーマを維持しながら、生き馬の目を抜く国内市場や世界のマーケットで通用するか、是枝監督が考え抜いた生存戦略だ。そして実際に、カンヌの最高賞まで射止めてしまった。誰にでもできることではない。

このような是枝のプロデューサー気質は長らく日本映画に欠けていたものだし、その才には大いに「感心」する。だが、是枝監督が勝負に出て、見事賞を射止めた《万引き家族》に、わたしは感心しつつも、感動どころか、大いに疑問を抱くことになった。

2

東京の下町の古びた一軒屋で、血縁関係のない6人の老若男女が、家族を偽装して暮らしている。うち何人かは働いてはいるものの生活費は足りず、子供も巻き込んで万引きを繰り返し、どうにかやりくりしている。
これが簡単な《万引き家族》のあらすじだ。このタイトルは散文的な意味のみを指すのではなく、彼らのあり方それ自体を示している。「長男」役の祥太は、ネグレクトされていたところを「父親」役の治が発見し、勝手に連れてきた子供だ。「長女」も同様の状況にあっており、彼らが無断で「家族」に迎えた。つまり彼らは、家族を「万引き」してきたのだ。

《万引き家族》のカンヌ受賞は、万引きを奨励するのかだとか、日本の貧困問題を海外に広めるのは国辱だなどと、SNS上で批判の声が上がる結果となった。もちろんこんなものは安易な言いがかりに過ぎない。
本来是枝が問いたいのは、「家族」とは何かという問いだろう。子供に万引きの片棒を担がせるのは褒められたことではない。だが、子供を粗雑に扱う「血縁上の親」と、貧乏ながらも彼らを大切に扱う他人とでは、どちらが真の「家族」と呼べるのか。こうした問題提起は、《そして父になる》(2013)や《海街diary》(2015)、《三度目の殺人》(2017)など、近年の是枝が繰り返し描いてきたテーマだ。

だが、ここにわたしはズレを感じてしまう。是枝の問題提起は、充分意味のあることだろう。だがその前にまず、誰にも家族が必要だという観念が横たわっているのが気にかかる。

「父親」治の行為は、一見不憫な子供たちを救っているように見える(実際そうではある)。しかし一方で子供たちの存在は、治自身が生きるための心の支えにもなっている。それは治のみならず、彼の「妻」役の信代や、「母親」役(子供たちにとって「祖母」)初枝にも当て嵌まる。
直截に言えば、《万引き家族》の根幹にあるのは、人には家族が必要だということだ。あまりにも当たり前すぎる主張だが、しかし考えてみてほしい。
子供にはたしかに親が必要だろう。だが成人してしまえばあとは個々の自由だ。人によっては、自分の家族が好ましいものではなく、捨て去ってしまいたいものかもしれない。結婚しても子供を作ることには関心がなかったり、独身を貫き通す人もいる。「人間には家族が必要」という、その前提自体、保守的なものなのだ。

くだんの炎上騒ぎにより、是枝裕和はリベラルな映画監督であるという印象が広く共有されたことだろう。《万引き家族》は順調にロングランを続けているが、観客の何割かは、これが批判意識の強い作品であり、カンヌがそれにお墨付きを与えたという印象のもと鑑賞しているはずだ。だが実際には、その作品は保守的な観念に基づいているのだ。

3

この夏に封切りになった、《未来のミライ》というアニメーション映画がある。監督の細田守は内外の映画祭で高く評価されており、宮崎駿の次代を担う存在と目されている。
細田と是枝には共通点がある。最近の細田作品は、どれも「家族」や「親子」をテーマとしている。是枝も近作に限らず、多くの作品で家族という主題を取り上げてきた。

《未来のミライ》の主人公は、4歳の男の子だ。妹が生まれたことで、両親の愛情が自分から離れたと思い込み、家族に反発する。だが、未来からきた高校生の妹「ミライ」や、青年時代の曾祖父らとの出会いを通して、家族がどういった経緯で成り立っていったのか理解し、それを通して成長していく。

4歳児が理解するには難しいだろうが、ファミリー向け映画としては価値があるのだろう。しかしこれは、家族の一員であることを受け入れろ、一族の歴史を背負って生きていけという強制でもある。だが子供にとって、自分の家族が好ましくない状況だったらどうだろう。もし、ネグレストを行うような家庭だったら、どうだろうか。
子供は親を選べない。不幸な家族環境の中で、過去などという重荷まで背負わされた場合、それはとてつもない負担、場合によっては致命的な負債になるはずだ。

かつての細田作品はどうだったか。《時をかける少女》(2006)は、過去を恐れず、未来を選び取ることを訴えた。《おおかみこどもの雨と雪》(2012)は、重い過去を持つ血を引いていても、それに縛られず、未来に踏み出すことを肯定した。
こう並べると、細田監督にとって、「過去」や「歴史性」というテーマが徐々に重みを持ってきていることが分かる。だがこれらの作品と《未来のミライ》とでは、まるで真逆だ。どういった心境の変化かは分からないが、この作品での家族のあり方は、ちょっと肯定しかねる。過去という重力に縛られ、未来への飛翔を阻もうとする作品のタイトルが《未来のミライ》というのは、あまりにも皮肉が過ぎないだろうか。

4

家族というテーマは不変だ。だが同性婚など、家族を巡る認識は日々多様化している。いやそれ以前に、「まず家族ありき」という考え方自体、既に前時代の遺物と化している。

ホームドラマと言えば松竹映画だ。松竹の巨匠と言えば、やはり小津安二郎だろう。小津が描いた家族像とは何だったろうか。《麦秋》(1951)、《東京物語》(1953)、《東京暮色》(1957)、《秋刀魚の味》(1962)――その多くが、典型的な日本の家庭像の崩壊と、彼らの孤独を描くものではなかったか。

若い世代の結婚意識が低い、子供を作らないというニュースをよく聞く。これについては経済的な問題も切って離せないが、成人したら家庭を築かなくてはいけないという抑圧や思い込みから、若い世代が解放されつつあるのは間違いあるまい。現政権は結婚や子供作りを奨励するが、決めるのは個々の自由だ。さらには「同性愛者は生産性がない」と言い出す者まで出る始末である。

家族は作ればいいというものではない。虐待の悲劇はあとを絶たない。家族を作ることを否定する者だっている。家庭を希求しているのにそれが果たせず、孤独に生きる者もいる。そういった人たちにとって家族を作れという抑圧は、無遠慮に、あつかましく、ときに残酷に響くことだろう。

旧来の家庭像など、とっくに崩壊している。今ホームドラマを描くなら、それを前提としなくてはいけない。《万引き家族》は、多少はその認識のもとに作られているようだが、下町の一軒屋が舞台だったり、三世代に渡る家族を偽装している点など、旧弊な家族像への再帰性が見え隠れしてならない。孤独な中年男が、子供や家族を「万引き」し、つかの間、生の実感を得る。そこまでして家族を作らなければ、彼は救われないのだろうか。こういった点に、リベラルを装った、保守的な思想が伺える。

家族に背を向け、ひとりで生きることを選択する。そういった存在を肯定すること、そうした生きかたの道筋を立てること。これもフィクションには重要なテーマのはずだ。別にホームドラマを作るなというつもりはないが、旧弊な家族像を押しつけ、孤独な生を抑圧するような作品を立て続けに見ていると、2018年の今が、むしろ小津以前の時代に戻っているような感覚さえ覚えるのだ。

 (2018/8/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中