カデンツァ|ハリウッド的ベートーヴェン?|丘山万里子
ハリウッド的ベートーヴェン?
text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
最近、とても考えさせられ、今も考えて続けているコンサートのこと。
フランツ・ウェルザー=メスト率いるクリーブランド管弦楽団のベートーヴェン・ツィクルス《プロメテウス・プロジェクト》(6/2~7@サントリー)。私が聴いたのは三日目『コリオラン』『第8番』『運命』。
着席後、ウェルザー=メスト語る《プロメテウス・プロジェクト》の趣旨を知るべく、プログラムにさっと目を通す。頭に残ったのは以下。
コンセプトは「善のための戦い」、プロメテウスを切り口に作品が内包する哲学を読み解き、それを音で伝える。ベートーヴェンは「善を求める闘士」たるヒーロー。彼の音楽を通して今日の国際社会における「善と真実」を考える契機としたい。私たちはヒーローを必要としている。
気になったのが「ヒーロー」という言葉で、じゃあ、どんな新たなヒーロー像が彼らのベートーヴェン演奏を通して立ち現れるのか、という聴き方になった。当たり前だが読解・聴取は各人各様、人は読みたいように読み、聴きたいようにしか聴かない。プロジェクトに興味の無い、あるいはプログラム(有料/ウェルザー=メストの詳細な作品解説つき)を持たぬ聴衆に、こういう「聴点」は生じなかろう。
『運命』の途中で、私は密かに笑ってしまった。「闇から光へ」のベートーヴェン的闘争(プロメテウスの火!)は、素晴らしく快速の冒頭テーマ(と私には思えた)の一振りから、素晴らしく流麗な音楽が、素晴らしく豊麗な響きで疾走してゆく。
昔、海外暮らしで子供達と見ていた TVに、Maxという名の車が活躍する番組があり、主人公がハンドルを切りつつ「飛べ!Max!」と叫ぶと、車はジェット機みたいに宙を飛んだ。家の近くに、小さな谷間のような道があり、我がフォルクスワーゲンが下り坂から登り坂に差し掛かると、乗員全員で「飛べ!Max!」と叫び、アクセルを思いっきり踏みこんだものだが、あの感覚に似ている、と言えば、今どきの方々にはそれこそ笑われるだろう。プロメテウスの火は花火のように華麗に打ち上がり、イルミネーション満艦飾のティズニーランドでポップコーン片手にパレードを見ている気分であった(嫌いではないが)。
猛烈な追い込み、最後のだめ押し一音ののちの大喝采の中で、一瞬思った。
「私たちのヒーロー」って、こういうこと?
彼らの演奏が私に結ばせたヒーロー像は、いみじくもハリウッド的であった。
こういうことってどういうことか。
帰宅後、ウェルザー=メストが寄せた二文を念入りに読んだのである。
巻頭言最後の一文。
私たちが生きる今日において、芸術は日々の景色に大きな影響をおよぼし、私たちの価値に気づかせてくれます。一日一日は、ただ何かを肯定するための時であるだけでなく、人類の善(good in humanity)を求めて実際に立ち上がるための時でもあります。ベートーヴェンと同様、私もまた、人間の価値と潜在能力を強く信じています。あらゆる人々に内在する力と善良さこそ、ベートーヴェンの音楽に込められているメッセージであり、その可能性を伝えることが「プロメテウス・プロジェクト」の趣旨なのです。
さらに「プロメテウス・プロジェクトについて『善のための戦い』」の締めの言葉。
私たちは皆、ヒーローを必要としている。善と真実を教えてくれて、この狭い地球を共有する国際社会が進むべき最善の道を力強く示してくれるヒーローを。
聴前に刷り込まれた言葉「ヒーロー」の裏に私の意識が張った薄膜は、「今日の国際社会」って、やっぱりトランプのアメリカと世界状況ってことかな、である。
現代のヒーローにトランプと金正恩を挙げたら顰蹙ものだろうが、一面では妥当ではないか。あるいは、シリコンバレーのヒーローたちでも良い。
私はクリーブランドがどういう土地か知らない。ただ、かつて鉄鋼業、自動車産業など工業の中心地であったのが、「ラストベルト」(さびついた工業地帯)と呼ばれる都市の一つとなり、トランプがこのラストベルトの白人労働者層の支持を得ていることくらいは耳にしている。
かつてのヒーローに変わる新たなヒーロー待望論は、力には力をの「戦い」に他なるまい。民主主義とポピュリズムや貿易戦争なども含め、昨今のせめぎ合いが生み出す不協和に、またぞろこの「戦い」パターンを繰り返すのが歴史の力学なのかどうか。
権力は常に自らを「善・真実・正義」とするが、これに対する抵抗勢力、「反」「アンチ」は看板すげ替えの振り子ゲームでしかないのじゃないのか。
そういうゲームに取り込まれない「善と真実」「最善の道」とは?
プロメテウスは神々に逆らって火を盗み人間に与えたが、その炎の中心は「正義・真実・自由」、文明の礎たる火は破壊をも引き起こすゆえ、人間は常に善のためにこれをコントロールせねばならない、とのウェルザー=メストの主張はまっとうだが、それ自体、今風のキャッチーな戦略よね、と思わぬでもない。
音から浮かんだハリウッド的ベートーヴェンと、言うところの「善のための戦い」を今日世界にどう重ねるか?
などなど、私の暴走は止まらない。
プログラムにはマーク・エヴァン・ボンズ(米音楽学者、『聴くことの革命』2015/アステルパブリッシング)の寄稿文「音楽と意味<ベートーヴェンの世界変革>」もあった。
『聴くことの革命』はベートーヴェンの交響曲と時代の「耳」の変遷をたどりつつ、聴取というものの在り方を論じた本であるらしく、ヒーロー探索の手がかりになるかと読むことに。昨年12月藝大でシンポジウム《プロメテウスの音楽:ベートーヴェン2020に向けて》があり、パネリストはヴェルザー=メスト、ボンズ、近藤譲(『聴くことの革命』訳者)だったことも知る。今回の来日公演に合わせた企画らしい。
暴走はさておき。
もう一つ、気になったことがある。先ほどちょっと触れた「聴点」について、だ。
ハンスリックとワーグナーの論争を引き合いに出すなら(音そのもの/形式美学vs音の意味/内容美学)、プロジェクトは「意味」を、そういうことに興味のない人は「音・響自体の美」を、と二極化、聴き方はそれぞれよね、となろう。
これを極めて単純に、聴取における「言葉」(音についての語り)の有る無し、と言ってしまおう。
私の聴前の刷り込みは「言葉」で、それが私の「聴点」を生んだ。だが、それを手にしない聴取は純粋に「音」のみ、であろう(か?音響の快楽主義?)。
ハンスリックは「言葉に惑わされるな、音だけ聴け!」と言い、ワーグナーは「音も言葉もともに聴け!」で『第9』(合唱付)に交響曲の極致、「未来の音楽」を見た。
さて。
「音だけ!」論者ハンスリック(音楽の内容は響きつつ動く形式/『音楽美論』)は、表題だのエピソードだのの「語り」から音楽の意味などという幻像をでっち上げるな、と言いつつ、『第5』『第9』についてこう評する。
ベートーヴェンは、生活のあらゆる外的、内的な不愉快な事柄の大嵐を、彼の身にふりかからせる。闘いは激しい。だが、人間における神的なものは苦しさを闘い抜き、勝利を収め、ついにフェニックスのように情念の灰から立ち昇る。ハ短調とニ短調の交響曲は、このプロセスをもっともはっきりと、しかももっとも美しく私たちに示す。
批評家としての彼は、音のみならず、作曲家の人生の嵐にも想像を羽ばたかせているのだ(「音楽作品は芸術家の想像(Fantasie)から出て、聴者の想像のために現出する」と言っているし。ボンズにも「想像力をもって聴くこと」という章がある)。
つまり、自由に想像せよ!
ところで私は熱意あふれる曲目解説は事前に読まなかった。
個々の楽曲についてのあれこれの解説は、私の自由な想像を妨げるからパス(ご高説に沿って検証、みたいな作業はごめんだ)であった(後日ちゃんと読んだ)。
『聴くことの革命』でボンズは私たちの聴取について、こう締めくくっている(ベートーヴェン云々の後半は私には陳腐に響くが)。
結局、慣習や制度、時や場所を超越した中立的な聴取機能などというものは、妄想でしかない。あらゆる個人、あらゆる世代が、個人の状況や集団的な状況によって形作られた仕方で、音楽を聴く。聴取が本質的に主観的なものであることをハンスリックと共に嘆くのではなく、私たちはむしろ、ベートーヴェンの同時代の人々の導きにしたがい、そして、そうした個人的様相と集団的様相を包含して、それらを、主観と客観、個別と普遍、聴き手と作品の高次の融合へと、統合すること(たとえ不完全ではあっても)を目指し得るだろう。
人にしろ、社会にしろ、時代にしろそれぞれ固有の文脈がある。それをすり合わせ、重ね合わせて新たな文脈を切り拓いてゆく、それが、無類の想像を許す音楽の豊かさではないか。
ハリウッド的ヒーローは暴走のままだし、聴取と想像の話だって雑駁。ではあるが。
《プロメテウス・プロジェクト》がある種のコマーシャリズム(あるいはアジテート)であろうとなかろうと、提示された「音楽」「言葉」は私に問いを投げた。
私はそれを手放さず、少しでも自分の貧しい文脈を拡げて行きたいと思う。
(2018/8/15)