Menu

伊藤亮太郎と名手たちによる弦楽アンサンブルの夕べ|丘山万里子

<ヤマハホール 珠玉のリサイタル&室内楽>
伊藤亮太郎と名手たちによる弦楽アンサンブルの夕べ
〜弦と弓が紡ぐ馥郁たる響き〜

2018年6月8日 ヤマハホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by Ayumi Kakamu/写真提供:ヤマハホール

<演奏>
vn : 伊藤亮太郎、横溝耕一
va : 柳瀬省太、大島亮
vc : 辻本玲、横坂源

<曲目・演奏>
E .ドホナーニ:弦楽三重奏曲 ハ長調「セレナード」Op.10
  伊藤亮太郎、柳瀬省太、横坂源
A .ドヴォルザーク:弦楽五重奏曲 第3番 変ホ長調 Op.97, B.180
  伊藤亮太郎、柳瀬省太、大島亮、辻本玲
〜〜〜
J.ブラームス:弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 Op.18
  伊藤亮太郎、横溝耕一、柳瀬省太、大島亮、辻本玲、横坂源

(アンコール)
A .シェーンベルク:「浄夜」より抜粋
  伊藤亮太郎、横溝耕一、柳瀬省太、大島亮、辻本玲、横坂源

 

押しの一手の音楽。
N響コンサートマスター伊藤亮太郎を軸に若手・中堅実力派5人を集めた弦楽アンサンブルであればその勢いは推して知るべし。三、五、六重奏と編成は異なれど、いずれも満腔の音圧波。<馥郁たる響き>を楽しむというより、がっつりエネルギーに気圧されっぱなしの一夜であった。

ドホナーニとはこんなに先鋭な人だったか、と思ったのは、3人の奏者の弓のキレ具合によろう。冒頭のマーチはハンガリー民謡風であるのに、ふとナチスの軍靴の足音を想起したのは(1902年の初期作)その後の彼の人生が重なったからだろうか。ロマンツァ、ピチカートを縫うヴィオラ柳瀬の情趣に(よい味を出している)、ここでも望郷の色を読んでしまう。続くスケルツォ、3者の鋭角下降音型がジグザグ宙を斬り始めるとともに、そんな雑念は消える。アンダンテ楽章の哀愁を帯びた歌は全体に線が太く、もう少し流れに沿った濃淡が欲しいところ。が、時折入る一瞬の亀裂の奏出は鮮やかだ。一転、終章ロンドは小刻みなリズムで駆けるが、軽快というよりずしっとした重さで地を蹴ってゆく。全編を通し音の重量と、それゆえの斬れ味がこの作曲家のロマン主義の隠れた辺境意識をあぶり出すようでもあった。

ヴィオラ2丁のドヴォルザークは響きの重心がより低く。辻本が中央にどっしり構え、目線を要所に配って頼もしいが、音楽的には柳瀬に注目。ボヘミアの野を遠く見はるかす野趣豊かなドヴォルザークらしい作品で、アメリカ原住民音楽から得た楽想もはさまれ変化に富んだ展開ではある。が、その一つ一つのシーンをこまやかに描き出すというより、力でぐいぐい押し進み、終章の白熱へなだれ込む。ふっと息を緩める間合いや色合いが欲しく、ここはたっぷり節に酔いたい、のを急き立てられる場面がかなり。例えば第3楽章のテーマ、ひとふしの一呼吸が筆者には浅く、いささか酸欠気味になる。第2楽章、ヴィオラ、ヴァイオリンのソロ部分での美しさなど印象深いゆえ、単体での歌心と、複合体での力学の難しさということか。

ブラームスも熱演・力演だが、ここではヴィオラ、チェロの中低音の充実が響きに深みと奥行きを与え、構えの大きなロマン世界を構築して見せた。第1楽章の弦の波形、寄せては返す、でなく寄せては寄せて、であるのが彼ららしく、最後のピチカートの後の終句の語気の強さも、いかにも、だ。第2楽章ヴィオラで歌いだされるテーマ、それぞれ渾身のソロを支える声の帯、ひたひた迫る情感の大河細流(くらい変奏により刻々変化)は各奏者の持ち味が生き、当夜の白眉。弾力に富むスケルツォに続き、終楽章ロンドの伸びやかな旋律と各部の応唱から終尾の短い疾駆は、この作品前半の重さを受けるに適切な明るさを備え、若きブラームスの肖像に似合った仕上がりとなった。
全体に各パートが室内楽というよりシンフォニックな押し出しよい演奏で、それもまた当時の作者の筆(オーケストラも書いてみたいけど・・・)の裡を伝えたのではないか。

アンコール、シェーンベルク『浄夜』抜粋、不穏な色と切り裂くような蒼昏い抒情が彼らにピタリはまり、実はこれが随一と筆者は聴いた。この6人ならではの個性がストレートに出たと思う。

 (2018/7/15)