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モルゴーア・クァルテット 第46回定期演奏会|藤原聡

モルゴーア・クァルテット 第46回定期演奏会

2018年6月27日 浜離宮朝日ホール
藤原聡(Satoshi Fujiwara)

<演奏>
モルゴーア・クァルテット
  荒井英治(第1ヴァイオリン)
  戸澤哲夫(第2ヴァイオリン)
  小野富士(ヴィオラ)
  藤森亮一(チェロ)

<曲目>
チャールズ・ウォリネン:ジョスカニアーナ
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 作品18-3
ジョージ・ロックバーグ:弦楽四重奏曲第3番(1972)
(アンコール)
バーンスタイン(荒井英治編):『ミサ曲』から「瞑想曲第1」~ピアノのための『5つの記念日』(1949-1950)から「スザンナ・カイルの為に」

 

毎回こちらの予想の斜め上を行くプログラミングで唸らせてくれるモルゴーア・クァルテットだが、今回はジョージ・ロックバーグの弦楽四重奏曲第3番という代物を持って来た。よほどの好事家ではないと間違いなく曲名も知らない、もちろん聴いたことのない曲であろう。筆者はロックバーグという名前をかろうじて覚えていたが、それはギドン・クレーメルがそのアルバム『ア・パガニーニ』の中で『カプリース変奏曲』という怪作(パガニーニの『24のカプリース』終曲に基づく)を披露しており、そのインパクトが強烈だったためだ。過剰なまでの超絶技巧のオンパレード、パガニーニのみならずベートーヴェンやらシェーンベルクの作品も顔を出す(例えばベートーヴェンでは弦楽四重奏曲の『ハープ』がほぼそのまま引用されていたりして面食らう)。当夜の弦楽四重奏曲第3番、楽譜に記された演奏時間は47分とのことでまさに「大作」である。これに匹敵する長大さを誇る曲は一般的に演奏される弦楽四重奏曲の中ではベートーヴェンの15番くらいなものだろう。これは妙な期待をしてしまうではないか。

のっけからロックバーグについて記したが、この日の1曲目はまたこれも捻りの利いた選曲でウォリネンの『ジョスカニアーナ』。ジョスカン・デ・プレの3声、4声、5声の世俗的楽曲6作の弦楽四重奏への編作、との注釈がある、とはプログラムの池辺晋一郎氏(同氏によればremadeとあるのでむしろ再創作あるいは再構築と言うべき、とも)。しかしそのremadeぶりは極めてシンプルであり、一部に特殊奏法が用いられはするもののジョスカンを押しのけてウォリネンが前面にしゃしゃり出るような瞬間はまるでない。音楽は対位法的に静謐かつ粛々と展開して行くが、モルゴーアの4人はノン・ヴィブラートの奏楽によってその薄いテクスチュアの層をブレなくていねいかつ明晰に表出しており、ちょうどバッハの『フーガの技法』を弦楽四重奏で聴く際のあの静かな陶酔感と同様の感覚をもたらされる。大変に美しい音楽であり演奏だ(尚、毎度恒例、終演後の荒井氏トークによれば「モルゴーアらしくない音楽」(笑)、「簡単そうに聴こえるでしょうが非常に演奏が難しい」)。

2曲目はモルゴーアにしては至ってオーソドックスにベートーヴェンの第3番だが、これは実に正統的な名演奏。4人とも大変音が美しく、その歌い回しはデリケートでニュアンスにも富んでおりチャーミング。殊に第1楽章の優美な表情には大いに惹かれるものがあった。

さて、いよいよ問題のロックバーグである。本作品の楽章は全部で5つだが、第1、2楽章が「パートA」、第3楽章が単独で「パートB」、そして第4、5楽章が「パートC」、つまり3つに区分される。そして第2楽章と第4楽章がマーチでシンメトリックであり、その指示(「精神的に。しかしグロテスクかつ凄惨に」)もまるで同じ、さらに第4楽章には「正確にⅡのテンポで」という但し書きがある。そう、これはマーラーの交響曲第7番『夜の歌』とこれをヒントにしたと思しきバルトークの弦楽四重奏曲第5番の構造と極めて類似性がある。あるいは第1楽章にはマーラーの交響曲第10番の第1楽章に登場するのと非常に似た下降音形が登場するが、ここで聴き手はさらにクック補筆版の第10番(言うまでもなく5楽章制)をも連想する羽目になる。更に言えば、中央に置かれた第3楽章のアダージョは楽曲構造的な連想からも、または楽想面からも本稿の第1節で言及したベートーヴェンの第15番のクァルテットの同じくアダージョ(この曲もまた5楽章制!)を明らかに範にしている。いかにも『ラズモフスキー第3番』終楽章のような高速の楽句もあればルトスワフスキやベルク、シェーンベルクを想起させるような箇所もある。このような指摘をさらに続けることができるが、つまりは「何でもありのごった煮」ということだ。

これもプログラムを見れば、ロックバーグはスカレーロとメノッティに作曲を師事、ダラピッコラに刺激を受け、バルトーク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルク、ウェーベルンらの語法に接近したのち厳しいセリエリズムへ到達するも60年代初頭にはそれと決別してより普遍的な様式を模索、晩年には過去の音楽様式の再取得を探求、新ロマン派的な傾向を示した、の記載がある。書いているこちらも混乱して来るが、この辺りの翻弄のされ方はいかにもアメリカの作曲家だという気がする。ヨーロッパから離れたアメリカという国だからこその価値感の拡散と言うか全てが等価なものとして意匠のごとく着脱される。そこにヨーロッパのような美学的イデーはなく、引用があるのみ(象徴的な意味性を孕むシュニトケ的多様式主義ともまた意味が異なるだろう)。決してロックバーグを貶めている訳ではない。これは彼流の真摯さの表れと捉えられるのではないか。オリジナリティや作家的主体などはもはや誰も信じていない。過去の偉大な作品を職人的な力業でひたすらにパッチワークすること。そこに現代における別種の真実が露呈する。何もロックバーグの音楽に特有の特徴でもなかろうが、それをここまであからさまかつ過激に行なう作曲家もそうはいないだろう。

曲に対する言及が長くなったが、モルゴーアによる演奏は相当に満足の行くものだった。4人が極めて素早い楽句を繰り返すような箇所では遅れ気味になるパートがなかったとは言わないし、技術的により完全な演奏もあり得るだろうが、とにもかくにもこの作品の持つ「異形さ」が聴き手に否応なく伝わって来たという点で実に稀有な演奏だったと思う。今後実演で聴く機会があるとはほとんど思えないような極めてレアな当曲を取り上げてくれたモルゴーアには感謝あるのみだ。

ところでこうして見ると、1曲目のウォリネン→ジョスカンのremade、3曲目のロックバーグ→自身が影響を受けた過去の諸傑作のremade(と敢えて言おう)、この両端曲における過去への眼差し。そして中央に位置する偉大な古典/参照点としてのベートーヴェン(つまりモルゴーアにしては逆に意外なベートーヴェンという選曲はこのためだ)。これもまた当夜のロックバーグ作品と同様にシンメトリックな構成。

アンコールも気が利いている。ロックバーグからのアメリカ繋がり、そして同じく生誕100年繋がりバーンスタイン(ロックバーグは1918年7月5日生まれ、バーンスタインは同年8月25日生まれ)。先述の2曲をシームレスに繋げて演奏したのだが、特に『ミサ曲』荒井アレンジ版の音楽からは原曲とはまた違った親密さを伴う憂いが聴き取れた。そして、この情感は弦楽四重奏版特有のものだった気がした。

 (2018/7/15)