クリーヴランド管弦楽団 ベートーヴェン交響曲全曲演奏会|平岡拓也
2018年6月5日、6日、7日 サントリーホール 大ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影:6/5
<演奏>
管弦楽:クリーヴランド管弦楽団
指揮:フランツ・ヴェルザー=メスト
ソプラノ:ラウラ・アイキン(※)
メゾソプラノ:ジェニファー・ジョンストン(※)
テノール:ノルベルト・エルンスト(※)
バス・バリトン:ダション・バートン(※)
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)(※)
(※)・・・ツィクルス〔5〕のみ
<曲目>
♪ ツィクルス〔3〕 6/5
ベートーヴェン:序曲『コリオラン』 Op. 62
ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 Op. 93
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op. 67 『運命』
♪ ツィクルス〔4〕 6/6
ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 Op. 36
ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 Op. 68 『田園』
ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 ハ長調 Op. 72b
♪ ツィクルス〔5〕 6/7
ベートーヴェン:弦楽オーケストラのための大フーガ 変ロ長調 Op. 133
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 『合唱付き』 Op. 125
クリーヴランド管弦楽団がベートーヴェンの全交響曲を演る、という企画に対して、日本の音楽ファンはどれほど興味を示したのだろうか。少なくとも自分は「彼らのベートーヴェンは是非聴きたい」と思ったのだが―日本の音楽ファンの回答は、空席の目立つサントリーホールの客席に象徴されていたのかもしれない。語弊を恐れずに言ってしまえば、「アメリカのオーケストラが演奏するベートーヴェンなんて・・・」ということだ。確かに独墺圏の名門オーケストラによるベートーヴェン演奏は、言語や生活環境を同じくするという意味では本場なのかもしれない。しかし、20世紀から21世紀にかけての多極化やグローバリゼーションを経てなお、「本場」の優位性というのは未だに絶対的なものなのだろうか?筆者は、アジアや南半球のオーケストラのベートーヴェン演奏が独墺圏のそれより優れていないとは決して思わない。
ではアメリカ、特に今回のクリーヴランド管弦楽団はどうだろう。セル、ブーレーズ、マゼール、ドホナーニら、精緻な合奏を実現させる手腕をもつ歴代シェフに率いられてきたクリーヴランド管は、いまや世界屈指の合奏力を持つオーケストラになった。ヨーロッパ的な伝統とアメリカのオーケストラ特有の輝かしさを両立するこの稀有な楽団によるベートーヴェン演奏には、それだけで唯一無二の個性が宿っているのではないか。これを踏まえて、自分は「是非聴きたい」と思ったのである。
ここで、本ツィクルスが冠している『プロメテウス・プロジェクト』とは?ということについて簡単に触れておきたい。ギリシア神話の英雄プロメテウスのメタファーとしてベートーヴェンの全交響曲・4つの序曲が配置された。プロジェクトの意図、曲順の意義についてはプログラムにヴェルザー=メスト自身が解説を寄せている。それを読む限り彼の思索は多岐にわたるようだが、「善のための戦い」というキーワードがひときわ筆者の目に留まった。プロメテウスが人類に与えた火は創造・破壊どちらにも使われうるもので、善のために使われるべくコントロールされなければならない。ヴェルザー=メスト曰くこの信念がベートーヴェンの創作姿勢にも共通しているのだという。音楽は単なる娯楽に留まらず、正義や自由という思念を内包する哲学であり、その実現のために彼は闘争した、と。本ツィクルスは、プロメテウスの信念という角度からベートーヴェンを再発見する試みなのである。
つい先ほど「クリーヴランド管は、いまや世界屈指の合奏力を持つオーケストラになった」と書いた。今回の彼らのツィクルスから受けた驚嘆こそが、この一文の根拠である。
彼らの第一音が身体に入ってきたときの感覚は、名人が握った鮨を口に含んだ瞬間か、上質なフレンチの一皿に手を付けた瞬間に似ている。うまい鮨もフレンチも、舌に触れた瞬間はよく分からないことが多い。だが、とにかく「うまい」のだ。素材がブレンドし尽くされていて、一体どう構成されているのか分からない。それが次第に解れていき、やがて口いっぱいに旨味が溢れ出す。すなわち、クリーヴランド管の旨味も、時間差でやってくる。おそるべき倍音の豊かさであったり、コントラバスの底鳴りであったり、はたまた奥行きと陰翳に富む木管かもしれない。
この「時間差の旨味」が最も顕著だったのが、第3日の一曲目、序曲『コリオラン』だ。一切アタックの軋みを感じさせずに、弦セクションの全員の弓が弦に触れたその瞬間からフルボディの音が豊潤に流れ出す。こんな芸当が可能なのか!?と、全身にじわじわと驚きが広がった。これに匹敵する瞬間が訪れたのは、第4日の最後に置かれた(珍しい曲順だが、プロジェクトの文脈上なのだろう)『レオノーレ』序曲第3番。アレグロでヴァイオリンが主題をppで奏で始めたとき、その裏で更なる弱音で8分音符を刻んでいるヴィオラまでがくっきりと浮かび上がった。この異次元中の異次元を耳にした瞬間には、超高解像度テレビの映像で女優の毛穴を見てしまったような小っ恥ずかしさすら沸き起こってきた。
もちろん、「旨味」の構成要素はどれをとっても極上なのだ。偶数番号の緩除楽章で特に顕著だった木管のふんわりと陶酔的な音色、とくにクラリネットには参った。『田園』の第2楽章でこれほど終わらないで!と思ったことはなかった。弦楽器については聴いているうちに考えが変化した。当初は「巨大編成にも拘わらずふっくらと柔和な響きを保つ」ことに驚嘆していたのだが、これはもしかすると「個々がしゃかりきになってガリガリ弾かずとも十分な音量を得る」ための巨大編成なのではないかと。事象の入口と出口が逆なのだ。そう解釈すると、9台のコントラバスが決して分厚く鳴らさず、あくまで調和の一員に徹している理由が分かる気がした。
最終日の『第9』は、彼らの前日までの驚異的水準に比べるとやや落ちたのは事実だ。18型の弦楽合奏でどこまでテクスチュアを透かして見せられるか、と試みているかのような『大フーガ』は凄かったのだが―『第9』では第2楽章のホルンなど、おや?という場面はいくつか見られた。独唱陣もベストとはいえなかったが、新国立劇場合唱団が大いに盛り立ててくれたのが嬉しい。
ここまで書いてきて、話題がオーケストラのヴィルトゥオジティに終始していることは自分でも重々承知だ。もし「結局彼らのベートーヴェンって何?」と問われると正直困ってしまうのだが、意を決してこう結論付けたい。ヴェルザー=メスト×クリーヴランド管は「オーケストラ芸術が21世紀前半に到達した極北」を提示したのであり、そこにベートーヴェンの姿はない、と。「プロメテウス・プロジェクト」と銘打たれた今回のツィクルスであったが、最後に残ったものは不滅のプロメテウスでも不屈のベートーヴェンでもなく、驚異的な合奏力を持つクリーヴランド管弦楽団という存在そのものであった。少なくとも筆者は、繰り広げられた音楽から形而上学的な主張を感じることは、ほぼなかった―『第5番』の第4楽章アタッカにおける暗→明が常以上に力強く訴えかけてきたのが、例外の箇所だ。しかしオーケストラ聴取の体験としては、疑いなく最上級のもの。音楽が語る精神ではなく、光り輝く音響そのものを第一義として味わう体験―これを空疎だと取るか、至極と取るか、それは聴く者の価値観に委ねられている。
(2018/7/15)