山根一仁&北村朋幹 デュオ・リサイタル|齋藤俊夫
新星の煌めき――俊英デュオ 山根一仁&北村朋幹 デュオ・リサイタル
2018年5月3日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ヴァイオリン:山根一仁
ピアノ:北村朋幹
<曲目>
(バッハ以外は全てデュオ)
アルフレート・シュニトケ:『ヴァイオリン・ソナタ第1番』
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ:『ヴァイオリン・ソナタ op.134』
J.S.バッハ:『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004』
イーゴリ・ストラヴィンスキー:『イタリア組曲』
(アンコール)ストラヴィンスキー(サミュエル・ドゥシュキン編曲):『タンゴ』
日本の「明日」を担う、どころではなく、もう既に「今」の日本音楽シーンを背負っている感すらある1990年代生まれの山根一仁と北村朋幹のデュオ・リサイタル。今回は3人の20世紀ロシア作曲家、シュニトケ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、そしてバッハと、自分たちの全てを出し切ろうという不退転の覚悟が感じられる曲目である。
シュニトケの第1楽章、ヴァイオリンの虚ろな、芯のない音(擬音語で表せば「キー」ではなく「ヒー」とでも書けようか)と、これまで筆者が「山根の音」と思い込んでいた芯の太い強靭な音の弾き分けにまず唸らせられる。
第2楽章では丁々発止の激しい序盤から、奇妙なワルツを2人で踊り始め、そして北村のピアノソロが岩も砕かんばかりの音をぶつけてくる。しかし最後には2人ともディミヌエンドして穏やかに終わる、と思いきやピアノが和音を強打、第3楽章である。
おそらく長調の序盤から、次第に長調とも短調ともつかない、かといって無調とも断言できないが、その調性と無調のあわいゆえの表現力を持った旋律が奏でられる。だが、この楽章の真の「怖さ」は楽章最後にヴァイオリンのハーモニクスで奏でられる長調の短い旋律と、ピアノが淡々と置いていく和音に宿っている。何故、これほどまでに不安をかきたてられる長調なのか?
最終楽章、筆者には「コパカバーナ」の変奏とも聴こえた前半から、また異なる舞曲へと、「多様式主義」のシュニトケらしい構成(ピアノの内部奏法も使われた)。ヴァイオリンのきしみ、場面ごとのピアノの軽重のタッチの使い分けによるその音楽は実に不気味でありながらシリアス。最後のピチカート上行まで、シュニトケの生きた「時代」を感じることができた。
ショスタコーヴィチ第1楽章、息の長い暗い旋律を唸るようにヴァイオリンが奏でていると思えば、ピアノと一緒にスタカートによる(ショスタコーヴィチ的)アイロニーが混じる。しかし2人で弱音を爪弾く所で、求心力が強音の箇所より減じていたのは否めない。
第2楽章は重音奏法に始まる山根のヴァイオリンが終始強烈な、そして重い音色による激しい不連続線を奏でた。他方、北村のピアノには山根と張り合わんとするかのような、シュニトケ第2楽章の削岩機のような勢いが欲しかったというのも正直なところである。
第3楽章、ヴァイオリンもピアノも美しく、されど2人で弾いても孤独なラルゴ。その孤独な情感が、緊張しつつずっと持続するのではなく、所々ただ譜面をなぞっているようになってしまったのは実に惜しい。ピアノとヴァイオリンそれぞれの激しいカデンンツァなどでは遺憾なく発揮された彼らの技巧はまさに本物であるが、「技巧以上の何か」(それが何なのかは筆者にも判然としないが)がこのショスタコーヴィチ作品にはもう少し必要だったのではないだろうか。
休憩を挟んでバッハのパルティータ第2番。
第1楽章アルマンドはデュナーミクの幅を広く取り、滑らかに歌い上げる。第2楽章クーラントは軽やかだが、音の芯はしっかりしていて軽薄にはならず、また「キーッ」といった甲高い音とも無縁。
第3楽章サラバンドは、ぐっと禁欲的な演奏。聴いていて自分の息の音すら邪魔になる。
第4楽章ジーグは一転して華やかかつ高速で突破する。
そして第5楽章シャコンヌの冒頭主題は王者の風格。変奏の度にヴァイオリンの音色が、音楽の表情が様々に変わる。ある時は壮大な宗教画のように、ある時は精緻な細密画のように。最後の主題再現はしっとりと穏やかに減衰して終わったが、これが22歳の奏でるバッハか!?と呆気に取られるほどのスケールの大きさであった。
プログラム最後のストラヴィンスキー『イタリア組曲』は重厚な曲が続いてのこちらの緊張をほぐしてくれる明朗かつ軽やかな長調の第1楽章、しめやかに弾かれる短調の第2楽章、ときて、第3楽章と第4楽章で山根にいささかの違和感を覚えた。強すぎる、と。新古典主義もしくは擬バロック音楽の本作品に、弓がしなるような奏法での山根の音は重すぎた、と思っても、第5楽章では弱音になってもしっかりと鳴り響くヴァイオリンとピアノの調和に聴き入ってしまったのだが。そして第6楽章でのイタリア音楽とロシア音楽が混ざりあったような不思議な歌心に満ちた響きに感服して終曲。
完璧、ではない。それは伸びしろがあるということでもある。ここまで堂々たる自分たちの音楽を作り上げてくれたのに、もっと上を期待できるとは、なんたるヴィルトゥオーソたちであることか!
(2018/6/15)