新しい耳〜寺嶋陸也の耳vol.4|丘山万里子

テッセラの春・第22回音楽祭
新しい耳〜寺嶋陸也の耳vol.4  ピアノ・ソロ
〜聖なる音・世俗の楽〜

2018年5月20日 サロン・テッセラ
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:テッセラ音楽祭実行委員会

<曲目>
モーツァルト:アダージョ ロ短調 K.540(1788)
A・ベルク:ソナタ ロ短調 作品1(1907-8)
安達元彦:ピアノのために(1969-72)
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バッハ:フランス風序曲 ロ短調 BWV831(1735)

(アンコール)全てロ短調
ブラームス : インテルメッツォ ロ短調 Op 119 no.1
スカルラッティ : ソナタ ロ短調 K.87
シューベルト: ハンガリアン・メロディ ロ短調 D.817

 

春秋に開催されるピアニスト廻由美子主宰<テッセラ音楽祭 新しい耳>の春・3日目。
敬意と絶賛。安達元彦の作品、寺嶋陸也の演奏の両方に、だ。

私は初めてこれを聴くが、「ピアノのために」というタイトルがこれほど似つかわしい曲もあるまい、と思うほど。ドビュッシーの『ピアノのために』へのオマージュとのことだが、それはそれ。
全身全霊、作曲者が、私はピアノが大好き、この楽器を喜ばせるためならなんだってします、できます、私にはその「腕」があります、とピアノに入れ込んだその一途な想いがほとばしり、うるうるの眼差しが右に左にゆき交い、ピアノを「楽しむ」、ピアノと「楽しむ」、弾き手が「楽しむ」、聴き手が「楽しむ」、どうだい、これこそが「ピアノのために!」ってことなのさ、と大盤振る舞いしてもらった気分になったのである。
最低音の轟きから最高音の煌めきまで、タッチによる変幻自在な響きの変化を含め、88鍵の上を縦横無尽、ピアノの魅力を隅から隅まですくい取り、即興性に満ちた時空間を寸部隙なくかっちりとデザイン(即興も可だが本日は楽譜通りと奏者の言)、これに奏者の生(なま)の息、肉体が反応する即興性(本来、音楽は全て即興だ)とで、聴きながら私はじわっと発汗した。隙ないデザインとは、スコアにすでに即興性(気の鳴動)が含まれており、だから奏者は余計なことせず、総身でそれを生きればいいようにできている、ということ(そのように反応できるかできないかは奏者のレベルで、だから冒頭の「敬意と絶賛」なのだ)。
第1楽章Accordは抒情的な音雫からふっとジャジーな楽句が姿を現し、と、思うと優しいハーモニーが鳴り、5音音階の多様な変容の中に低・中・高の全域を音が飛び交い、時に激しい連打音、突然の高音一閃、低音驀進、またあの楽句がふいっ、あちこち揺れる和音の連なりの上を蛍みたいに単音がぴかぴか飛ぶ、綺麗だ、で、こういう様々なシーンをばさっと断ち切る「間合い」の絶妙(奏者の力量絶大!)。最後、例の楽句に再見のち、ものすごい低音轟々の地響き、腕クラスターの地雷炸裂、はっしと受ける粉塵一片、奏者の身体がそのまま空間に刻みつけられるようなトドメであった。その猛然たる残響、今でもワンワン頭に響く。
一転、第2楽章Ostinatoは文字どおり、わらべ歌風な節回しの繰り返し。のどかだ。田舎の単線汽車に乗ってる感じ。これにまたジャジーが絡むとそこでぽっぽと小さな煙を吐くわけだ。あまり変わらぬ景色にそろそろ飽きてくると、単線は複線(鉄道用語でなく、イメージ)になる。隣を並走とも違う、気が利いたうまい設計(同時に弾くのは常に一音のみ、和音なし)。単音をぽつ、ぽつと静かに置いて、一駅の旅は思い出の中に消える。
第3楽章 Monodiaは無窮動風。なんてったって、大理石をカンカン撃ち鳴らす高音部での連打の大迫力。こういう音、日本の祭り、お囃子のそれを彷彿。汗まみれで神輿を担ぐ男衆が見える。実に独特、安達ワールドだ。旋回音形が地を小さな疾風(はやて)のように駆け、すとん、と終わる。お見事。全行程30分くらい。

休憩時のベンチ、婦人が携帯でどなたかに。
「すっばらしくて涙出ちゃった。安達先生もいらしてたのよぉ!」

ちなみに寺嶋は10歳から安達に学んだとのこと。作曲より身の振り方、とか言っていたが。演奏後、師弟がっちり握手を交わす。

アンコールも含め「ロ短調」を軸に「聖」と「世俗」がテーマの深遠な組み立てであるのに、この1曲で私は爪先から頭のてっぺんまで沸騰してしまい、その前に弾かれた2曲、後半のバッハも申し訳ないが消えてしまった。世俗の楽(?)に忘我の不肖を恥じる。
バッハは最後の一音を弾ききった途端、ホールを埋めた女性たちの「わあ」とも「きゃあ」ともつかぬ、だが控えめな嬌声が上がったことは申し述べておく。

(2018/6/15)