フジタ・ピアノトリオ演奏会 |能登原由美

フジタ・ピアノトリオ演奏会

2018年5月13日 京都青山音楽記念館バロックザール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 吉田隆/写真提供:吉田隆

〈出演〉
ヴァイオリン:藤田ありさ
チェロ:藤田ほのか
ピアノ:藤田めぐみ

〈曲目〉
モーツァルト:ピアノ三重奏曲ハ長調K. 548
スメタナ:ピアノ三重奏曲ト短調Op. 15
メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番ニ短調Op. 49

 

「三姉妹」という点に興味を引かれたわけではなかった。けれども、それぞれの演奏スタイルや音楽性に滲み出る個性の違いを見つけるにつれ、兄弟、姉妹間にみられる後天的な性格付けが室内楽のような協奏の場にやはり現れるのではないかと思えてきた。この姉妹、長女のめぐみがピアノを、次女のほのかがチェロを、三女のありさがヴァイオリンを奏する。もちろん、楽器も違えば受けてきた音楽教育も異なるであろうから、一概に比較はできない。けれども、その表現法の違いは最初のモーツァルト《ピアノ三重奏曲ハ長調K. 548》の冒頭からして如実であった。つまり、めぐみのピアノが軽やかで繊細、微かな余韻にさえ徹底してこだわるのに対し、ありさのヴァイオリンは豪快で実に勇ましい。それに対し、ほのかの奏でるチェロの、何と冷静、淡白なことか。

ただ、繰り返しになるけれども、「姉妹間による」個性の違いは前もって意識したのではなく、演奏を聴きながらおぼろげに感じたことであった。

それよりも私が当初から気になっていたのは、幼少より海外で音楽の研鑽を積んできた日本人演奏家が、音楽的個性をどのように養い、聴き手に対してどのようにその音楽性を示していくのか、ということである。しかもソロではなく、こうした室内楽の演奏の場合において、である。私自身、いくつかの内外の演奏家によるトリオやカルテットを聴いて、日本とヨーロッパのアンサンブルの音楽作りの違いを感じていたのだが、本誌の他のレビューでも同じような印象が持たれているらしいことを目にした。つまり、日本のアンサンブルの場合、全体の調和を尊重しすぎて個々の音楽性が抑えられる傾向があるというものである。アンサンブル全体で一つの音楽を奏でる以上、全体の調和や響き、音楽の作りが重要であることはわかるが、各奏者の顔の見えないもどかしさや勿体なさを感じる場面に何度も出くわした。

それは日本人の生来の気質のためなのか、日本の社会や文化によって徐々に形成されるものなのか、あるいは、日本の音楽教育の所以なのか…。常に考えるものの、まだ答えは見つかっていない。けれどもこのトリオの演奏を聴いて、やはり日本人気質として片付けられるものではないのだと実感した。彼らの音楽のスタイルや感性は明らかに異なっているが、それぞれが実に自由に、のびのびと演奏する。だからと言って、てんでばらばらというわけではなく、互いの音楽は常にしっかりと意識されている。その証拠にフレーズの受け渡しはいたってスムースで、いつの間にか三者の響きや流れが一体となり音楽のクライマックスを形作っていくのである。

個性を優先させながら一つの総体を作り上げていく。このトリオのこうした強みが全面に出ていたのがスメタナの《ピアノ三重奏曲ト短調Op. 15》であろう。第一楽章の冒頭から、ありさの太く強靭なヴァイオリンの旋律が全体をリードする。ほのかのチェロはその流れに乗りつつも平静を失うことはない。めぐみのピアノは二人の音楽の推移を全く自然に受けとめた上で、音楽を前へと推し進める。こうしたことを繰り返しながらやがて三者が一体となり、音楽は高みへ、高みへと引き上げられていく。とりわけ終楽章で味わった圧倒的な高揚感。これは見事というほかなかった。

もちろん、不満がないわけではない。メンデルスゾーンの《ピアノ三重奏曲第1番ニ短調Op. 49》は、冒頭の旋律が音楽全体の表現の幅を決めるが、最初にその役割を担うのはチェロである。しかしながら、ほのかのフレージングからその方向性を感じ取るのが難しく、続いて入ってきたありさのヴァイオリンに牽引される形でようやく音楽の流れが形成されていった。冷静で淡白な表現がほのかの持ち味であろうが、楽曲によってはそれが裏目に出ることが明らかであった。

けれども、このトリオが今公演で示した力は相当のものである。何よりも、個と個の相克と調和の上に成り立つアンサンブルの醍醐味に、ひとしきり酔いしれることができた。

(2018/6/15)