小人閑居為不善日記|スピルバーグは「市民ケーン」か| noirse
スピルバーグは「市民ケーン」か
text by noirse
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大きく報じられている通り、21年振りに日本映画がカンヌ映画祭の最高賞、パルムドールを受賞した。すっかりその影に隠れてしまったが、Netflix製作作品の出品が締め出された件も、今年のカンヌのトピックのひとつだ。詳細は割愛するが、外された作品の中に、オーソン・ウェルズが未完成のまま遺した《風の向こう側(The Other Side of the Wind)》の完成版があった。
オーソン・ウェルズ。いうまでもなく映画史上最重要監督のひとりで、デビュー作《市民ケーン》(1941)は、常にオールタイムベストの上位に君臨する金字塔だ。
同作は、演出や技術面だけでも革命的だったが、物語自体も後進に影響を与え続けている。4月に公開され、ロングランを続けている《レディ・プレイヤー1》もその1本だ。監督のスティーブン・スピルバーグは、《風の向こう側》復活プロジェクトの推進者で、《市民ケーン》のそり(後述する)を所有しているほどのウェルズのファンでもある。
《レディ・プレイヤー1》は、荒廃した現実世界と、「オアシス」という仮想現実空間(VR)、ふたつの層で展開する。オアシスの創始者ハリデーは、VR世界に隠した「イースターエッグ」を手にした者に彼の遺産とオアシスの所有権を譲ると言い遺し、世を去った。主人公ウェイドは、オアシスの所有権を狙う大企業と争いつつ、エッグを探す。
作品のポイントは大きくふたつ。ひとつは、壮大なCGと3D映像でデザインされたVR空間。もうひとつはオアシスの中に散りばめられたエイティーズ・カルチャーだ。ハリデーは80年代フリークという設定で、当時を知る者にはたまらないアイテムが怒涛の如く登場する。基本的には原作通りだが、スピルバーグ自身の80年代文化への愛着も加わり、ヒットに繋がった。
だがこの映画、わたしは違和感を抱かざるを得なかった。VRはたしかにトピカルな分野だ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ジョン・ファブロー、ニール・ブロムカンプなどの優れた監督たちも、次々とVR制作に着手している。だが《レディ・プレイヤー1》は、VRと謳ってはいても、特に新機軸を設けているわけではない。「VR空間」を自称する映像がスクリーンを通り過ぎるだけで、形式的にはいたって普通の映画だ。
物語面はどうか。ゲームをテーマにした映画は20年ほど前から作られているが、失敗と見做されることが多い。《レディ・プレイヤー1》の宝探しという設定やゲームステージをクリアしていくだけの構成はやや単調で、それらと同じ弱点を抱えたまま。
それにこのゲーム観、いつの時代の感覚なのだろう。スピルバーグはゲーム愛好家でも知られているが、レトロ・ゲームは好きでも、最新のモードには興味がないようだ。
エイティーズ・カルチャーに関しては、好きな人にはたまらないだろうし、シンプルにこれらを楽しむことに口を挟むつもりはない。つかの間のあいだ、懐かしく心地よい時間を提供する。それは映画やゲームの役目のひとつだ。膨大な予算を投入した、最新技術による映像も壮大ではあった。
けれど、それらすべてが空疎でしかなかった。それはこの映画が、本質的な欠陥を抱えているからだ。
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スピルバーグには、親子関係を通して、現実との関係や、自己の成長を問う作品が多い。《未知との遭遇》(1977)は、UFOに魅入られた男が、妻子を置いて宇宙へ旅立ってしまう話だ。多くの識者が、UFOを映画のメタファーと指摘している。つまりこの時点では、スピルバーグにとって、UFO=映画こそ最も大事なものとして君臨しているわけだ。このときスピルバーグは結婚していたが、まだ実子はいなかった。
その後彼にも子供ができ、《ジュラシック・パーク》(1993)を発表する。主人公の古生物学者は、恋人はいるが結婚はせず、家庭を作ることに興味のない人物として登場するが、恐竜からパークの創始者の孫を守るうちに、子供を慈しむ心に目覚めていく。この二作品の主人公の意識の変遷は、スピルバーグ自身の心の変化でもあったろう。
《レディ・プレイヤー1》ではどうか。ここではスピルバーグの分身は、若い主人公より、オアシスの創造者ハリデーと見るべきだろう。ハリデーはスピルバーグ同様ひとつの分野の成功者であり、監督自身の投影された姿として、観客の前に現れる。ハリデーを演じるマーク・ライランスのオタク然とした風貌は、スピルバーグにそっくりだ。
だがハリデーは既に死んでいる。そのためこの作品を、70代を迎えたスピルバーグから若い世代への「遺言」として受け取ることも可能だろう。血縁などなくとも、同じ夢や世界観を共有することもできるのだと。
一見いい話ではあるが、こういった考え方は、抑圧にも成り得る。ここで《市民ケーン》が関係してくる。
《市民ケーン》のストーリーを確認しておこう。主人公は新聞王ケーン。絶大な権力の代償として恋人や友人を失い、最期は大邸宅「ザナドゥ」の片隅で、孤独のうちに息を引き取る。物語は彼が遺した「薔薇のつぼみ」という言葉を巡って進み、映画のラストで、まだケーンが幼く純真だったころに遊んだ、そりの名前だったことが明かされる。
《レディ・プレイヤー1》に戻ろう。劇中、ハリデーが遺した謎を、「薔薇のつぼみ」になぞらえる場面がある。ハリデーはケーンと同じく、成功を収めたものの、孤独でもあったと匂わせているわけだ。
オーソン・ウェルズは、ケーンに幾分かの哀れみを与えつつ、権力を批判的に描くことを忘れはしなかった。《市民ケーン》は当時の新聞王ハーストをモデルにしており、彼の怒りを買ったウェルズは、ハリウッドを追放されたほどだ。
一方《レディ・プレイヤー1》には、批判的なまなざしは欠片もない。スピルバーグは、ハリデーの権力性には目をつぶり、「オアシス」という保守的な世界も、まるごと肯定してしまっている。
それが率直に表れているのが、スピルバーグとも親交の深い、スタンリー・キューブリックの《シャイニング》(1980)へオマージュを捧げたシーンだ。幽霊と化したホテルに主人公の小説家が憑りつかれ、狂気に陥っていくというホラー映画で、彼は最後、ホテルの「住人」たちが映る、古びた写真の中に閉じ込められてしまう。つまり《シャイニング》は、ノスタルジーの引力を描いた作品でもあるわけだ。
この構造は《レディ・プレイヤー1》と同じだ。オアシスは幽霊化したホテルであり、ハリデーは写真の中に閉じ込められた幽霊だ。そしてスピルバーグは、時の止まった写真の中に若者を誘うことだろう。現実はつらいだろう、懐かしい虚構の世界へおいでよと。
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スピルバーグは、《レディ・プレイヤー1》と同時進行で、《ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書》という作品を撮り上げている。ペンタゴン・ペーパーズとは、ベトナム戦争の政策決定の過程を記録した最高機密文書で、このスクープは、ニクソン政権を追い詰めていく契機となった。
シナリオを読んだスピルバーグは即座に行動し、猛スピードで製作を進めた。彼はその理由を、すぐ映画化する必要のある作品だったからと語っている。フェイク・ニュースやポスト・トゥルースという言葉の飛び交う今だからこそ、リベラリズムを信じる映画が必要ということだろう。
完成した《ペンタゴン・ペーパーズ》は、シネフィリーなスピルバーグの力量がフルに発揮された、古典的な風格すら漂う作品となった。それこそウォーターゲート事件を扱った《大統領の陰謀》(1976)など、70年代のポリティカル・サスペンスを彷彿とさせるせいもあってか、評論家筋の受けもよく、トランプ時代に問うにふさわしい、政治的な意義のある作品だという賛辞が飛び交った。
しかしその賛辞は少々ナイーヴに感じられる。トランプ時代の問題とは、彼らの常識がニクソン時代とはかけ離れたレベルにあり、今までの価値観や方法では通用しない点にある。過去の常識がくつがえされた今、「古きよき」ニクソン時代の美談を謳うことに何の意味があるのだろう。一見高らかに声を挙げているように見えながら、結局は同じ意見を持つ者同士で安全圏に閉じこもっているだけの、典型的なエコー・チェンバーではないのか。
お分かりだろう。80年代のガジェットに埋め尽くされた「オアシス」と、70年代の古典的な政治サスペンス映画の世界。《レディ・プレイヤー1》と《ペンタゴン・ペーパーズ》は、双子のような関係にあるのだ。
エイティーズ・カルチャーやゲーム、VRだとか言ってみても、スピルバーグの本音は《市民ケーン》や《シャイニング》、《大統領の陰謀》のほうにあるのだろう。彼にとっての本当のオアシスは、やはり映画の中にあるのだ。《レディ・プレイヤー1》と《ペンタゴン・ペーパーズ》に漂う閉鎖性、旧弊さは、そこに起因するのだろう。VRやゲームの演出が表面的にしか感じられないのも、彼の興味が実際にはそこにはないからだ。
昔からのスピルバーグのファンは、彼を永遠の子供だとか、映画界の革命児のように捉えているフシがある。だが今の彼は、保守的な趣味を持ち、ハリウッドの頂点に君臨する、70歳の老監督だ。スピルバーグこそ「市民ケーン」なのだ。
ノスタルジーに浸る程度で目くじらを立てるなんて、大人げないのかもしれない。だが常に「成長」し続けてきた天才が歩みを止め、硬直する姿を見て、一抹の悲しさを覚えないでいられようか。《未知との遭遇》にも現実逃避的な側面はあったが、未来へ進んでいこうという意思はあった。「オアシス=ザナドゥ」の、凍り付いた時間の中に閉じ込められることほど、スピルバーグに似合わないものはないと、そう思うのは間違っているのだろうか。
(2018/6/15)
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noirse
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