Menu

アレクサンドル・トラーゼ(ピアノ)|平岡拓也

〈異才たちのピアニズム 4〉 アレクサンドル・トラーゼ(ピアノ)

2018年5月23日 トッパンホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ピアノ:アレクサンドル・トラーゼ、キム・シウォン

<曲目>
ハイドン:ピアノ・ソナタ第49番 変ホ長調 Hob.XVI-49
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 Op.83《戦争ソナタ》
プロコフィエフ(トラーゼ編):ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Op.16より 第1楽章 カデンツァ
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26
~アンコール~
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26より 第1、3楽章
ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》からの3楽章より 第1楽章(キム・シウォン)

 

アレクサンドル・トラーゼというジョージア出身のピアニストを初めて知ったのは、2009年のNHK音楽祭においてヴァレリー・ゲルギエフがNHK交響楽団を指揮した時のことだった。ソリストとして登場しプロコフィエフを弾いた彼は、その巨躯からは想像出来ない俊敏さでこの曲を弾いたのである。その衝撃体験の後、やはりゲルギエフと共演したプロコフィエフのピアノ協奏曲全集に親しみ、ようやく今回実演を聴くことができた。なお、トラーゼは今回の来日でN響定期にも出演し、ショスタコーヴィチの協奏曲を弾いた。(筆者も会場に赴いた)

トラーゼのトッパンホール初登場となる今回のリサイタルだが、事前発表の曲目から大幅な変更となった。ラヴェルやストラヴィンスキーも含めたプログラムから、ハイドンとプロコフィエフに絞り、この2人の作曲家の対比をより印象付けることとなった。「古典」「新古典」の相似形を成すのみならず、両作曲家は如何なるジャンルにおいても目覚ましい成果を挙げ、かつ芸術としての質の高さが見事に保たれている。交響曲第1番『古典』のように、プロコフィエフ側から意図的にハイドンに「接近した」ケースも脳裏によぎる。トラーゼは2人をどのように弾き分けるのか。

ハイドンの第49番(ランドン版では第59番)のソナタは、両手のさりげない対話で始まる。そうして見る見るうちに音世界を拡げていくこの大曲ソナタを、トラーゼは軽々と弾き進めてゆく。しかし音色そのものは寧ろぎっしりと実が詰まっている。ああ、これが彼の音色だ―と懐かしく思って耳を傾けていると、時折極端にテンポを落とし、左右の打鍵のバランスを変えて意表を突いたりと、一筋縄ではいかない。この人を食ったような要素もハイドンの音楽なんだよ、とトラーゼが我々に語っているようでもある。厚めの化粧が施された彼のハイドンは最早瀟洒ではないが、楽曲に潜む仕掛けの抽出は実に丁寧だ。プロコフィエフがハイドン側に歩み寄ったように、トラーゼの手によってハイドンがプロコフィエフ側に(!)近づけられたのだ。進歩史観的な演奏ともいえようか。

本プロはここからすべてプロコフィエフの作品。彼のピアノ・ソナタ中はもちろん、全ジャンルを俯瞰しても最も有名で人気の高い作品の一つである『戦争ソナタ』。冒頭のハイドンの時点で若干想像はできたが、こちらの想定を上回る「トラーゼ節」の炸裂である。ピアノが耐えきれるのかという強烈な轟音(しかしギリギリのところでコントロールが効いているのか、濁らないのが不思議だ)を叩き出し、かと思えばふと可憐な表情でコロコロと爪弾く。音楽の表情は幅広く、それを実現させる両腕の強靭なバネは圧巻だ。両手の動きに連動して床を蹴る動作もしばしば見られたが、ペダルコントロールと連動しているのだろうか。前述したN響定期(2日目)のアンコールでも弾いた第3楽章は、トッパンホールでこれまで筆者が聴いた楽音の中でも最大音量であった。音像はシャープとは程遠く、太い芯が一貫する。また、随所で聴き慣れない箇所があるのだ―これは技巧の衰えで弾き飛ばしているのか、それとも楽譜を改変しているのか。いずれにせよ強烈なピアニズムである。振り返れば大味すれすれでもあり、拒否反応を持つ人もいるだろう。(実際、ある外国人客が露骨にネガティヴな反応を示して会場を後にした)

後半も当然プロコフィエフ。彼の『ピアノ協奏曲第2番』は4楽章構成でピアノが目まぐるしく駆け回り、管弦楽も容赦なく咆哮する大曲であるが―トラーゼはソロ最大の聴き所である第1楽章カデンツァに楽章冒頭部等を加えて自ら編纂。なるほど、オーケストラ無しでも成立する凶暴なピアノ作品として同曲は生まれ変わった。この試みを思いつくのはそもそも彼くらいではなかろうか。

続く『ピアノ協奏曲第3番』は、弟子のキム・シウォンとの2台ピアノ版。ピアノが対峙する形ではなく、マスタークラスのように2台が並ぶ配置で演奏された。シウォンが主に管弦楽パートを担い、トラーゼがソロを弾く。シウォンとトラーゼの打音が烈しくぶつかる箇所が多く、やや細部は聴き取り辛い。しかし演奏の力感は凄まじく、きわめて遅く始めて豪速に至る第1楽章の終結など、ピアノ2台ならではの即興的解釈も随所に聴かれたのは収穫であった。

なお、最後の連弾は楽器の不調(トラーゼ編のカデンツァにピアノが耐えきれず、弦に不具合が起きたようだ)により第1楽章で演奏が中断された。調律師による修理中、トラーゼは「水かココアでも要るかい?」などと客席を和ませていた。修理後の演奏は順調に進んだのだが―予定されていた(だろう)アンコールが流れ、放送用にミス箇所を録り直すため『ピアノ協奏曲第3番』からの一部演奏となってしまったのは、事故とはいえ残念。キム・シウォンの『ペトルーシュカ』(師匠譲りの強靭さに加え、コントロールの精密さでは上回る)は聴きものだったが、期待していたハイドンとプロコフィエフの弾き分けという点では消化不良に終わった。トラーゼのピアニズムはまさに「異才」だが、どの曲も厚塗りし過ぎのように思えたのは筆者だけだろうか。

(2018/6/15)