植村理葉 ヴァイオリン・リサイタル|丘山万里子
2018年4月5日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ヴァイオリン:植村理葉
ピアノ:江尻南美
<曲目>
ギョーム・ルクー:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調
武満徹:妖精の距離
〜〜〜
クララ・シューマン:3つのロマンス 作品22
ロベルト・シューマン:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第2番 ニ短調作品121
ヨハネス・ブラームス:「F.A.Eソナタ」よりスケルツォ ハ短調
植村の演奏の美質は過剰がないこと、音楽に誠実であること。作品を自分に引き寄せ自分の色に染めるのを「個性」と履き違える演奏とは真逆と言える。
スコアに対峙、対話、傾聴する姿勢。当夜に一本通った筋もそれ。
桐朋音高からケルン音大に学び滞独数十年、現在ベルリン・日本を往還、活動する植村の今回のリサイタルは<フランスの香りとドイツのロマン>。
ルクーとシューマンのソナタが中心とのことだが、私が楽しんだのは武満とシューマン夫妻の作品。
武満は音楽の佇まいが植村によく似合い、力みのないボウイングが描く静謐な音の航跡と一つ一つの音符の襞にまで分け入る濃やかなニュアンスが一幅の淡彩画。
力みのないボウイング、と書いたが彼女の音楽を支えるのはこの弓使いで、無駄な圧を加えず楽器を響かせる「地点」を知り、それが演奏の「支点」となり、先述の過剰の無さ・誠実を伝えるのである。
クララ作品は昨夏、日下紗矢子で聴いたが、趣は随分異なる。日下に私はクララの心象世界を読んだが、植村は眼差しを一歩引き、クララとロベルトの両者を現前させる。第2曲のトリルと弾む音形の組み合わせの妙に、クララとシューマンの距離の伸縮が見え、第3曲には夫の一途な想いとそれを受けとる妻の軽やかな「いなし」の応答が綴られるようだった。これだから音楽、演奏は奥深く、面白い。
そんなクララ作品の後だったからロベルトのソナタの激しい冒頭の入り(ヴァイオリンの重音の強い表情)と続くつぶやきに近いモノローグ、再びの激昂に彼の特異なロマンのほとばしりを感じずにいられない。というより、その配列、目線の流れが植村の狙いでもあったろう。
煽り勝ちなピアノに上ずらず、みっしり内実のある響きで音楽の大きな骨格を作りあげるところなどいかにもこの人らしい。
第2楽章スケルツォの切れ味も怜悧(鋭利、でなく)。
第3楽章コラールこそ彼女の音楽性があふれ出たしめやかな、秘めやかな、深い抒情をたたえたもので、その変奏の一つ一つに凝縮されたドラマがあった。終楽章の大揺れする起伏よりむしろ私はこういうところにロベルトの真髄を見る。
ルクーについては、この作品の持つ「フランスの香り」が立ちのぼったとは言い難い。ピアノがあまりに雑駁だ。ブラームスの、例えばモチーフの扱いにしても同様。「デュナーミク」は「音量」の操作ではないし、タッチにこそ音の命が宿る。
音楽作りの方向がヴァイオリンとピアノで必ずしも一致していなくとも「音楽」は成り立つ。だが、今回の組み合わせは、ほぼ正反対(方や削ごうとし、方や盛ろうとする)に私には思え、しばしば聴きづらいシーンがあったことを申し添えておく。
関連評:
植村理葉 ヴァイオリン・リサイタル2016|谷口昭弘
日下紗矢子 ヴァイオリンの地平3|丘山万里子
(2018/5/15)