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クリストフ・コワンと仲間たち|丘山万里子

クリストフ・コワンと仲間たち

2018年4月19日 武蔵野市民文化会館 小ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
アルペジオーネ、チェロ:クリストフ・コワン
フォルテピアノ:金子陽子
ヴァイオリン:ジェローム・アコカ

<曲目>オール・シューベルト・プログラム
ヴァイオリン・ソナタ イ短調「グランド・デュオ」Op.162 D574
アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D821
〜〜〜〜
ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 Op.100 D929

(アンコール)
ショパン(フランショーム編):マズルカ第41番 嬰ハ短調 Op.63-3、第34番 ハ長調Op.56-2

<使用楽器>
アルペジオーネ:ゲオルク・ティーフェンブリュンナー(ミュンヘン、1851年)
チェロ:アレッサンドロ・ガリアーノ(ナポリ、1720年頃)
ヴァイオリン:カルロ・トノーニ(ヴェネツィア、1720年)
フォルテピアノ:ヨハン・ゲオルグ・グレーバー(インスブルック、1820年)

 

「大きいことはいいことだ」(1968)というチョコレートの CM(山本直純作、出演)は64年の東京オリンピックとともに日本の高度成長を象徴、世に知れ渡ったが、音大生だった私の周囲で古楽を目指す学生たちが夢を語り、レオンハルトに学んだ鍋島元子(チェンバリスト)がその世界を眼前に示してくれたのは、それから数年後。が、その新しい波の意味まで考えることはなかった。
肥大化する世界、価値の一様化に走る時代へブレーキをかけるバランス感覚の一つの顕現。彼らは問いかける。「ねえ、僕たちはほんとうのところ、何を見、何を聴きたいんだろう?大事なことは、何だろう?」。
私がそれに気づくのは、かなり後のことだ。

ナヴァラに学んだ(と聞いただけで胸躍る)コワンが世界に20台前後しかないアルペジオーネでシューベルトの『アルペジオーネ』を弾く。「空前絶後の大事件!!」とのキャッチコピーは誇大でない。フォルテピアノ(以下ピアノと表記)はパリ在住の実力派金子陽子。

むろんアルペジオーネが目玉なのだが、私は『グランド・デュオ』の出だしのピアノのなだらかな付点音型が囁くように耳元に届いた瞬間、ああ、これこれ、と全身が喜んでしまったのだ。あとはひたすら愉悦境。鈴を振るような高音、ときどきひなびた色合いを見せる中音、豊かでまろい低音。奥ゆかしくも変幻自在の声で、生き生きとしたアーティキュレーション(フレージングもアーティキュレーションも声楽にならえ、とは B・クイケンの言葉)、表情は多彩。第3楽章のトリルの波の高雅なこと。
ヴァイオリンは、といえば、いたって気持ち良く、声を合わせて歌っていた。

いよいよアルペジオーネの登場。写真で見たことはあるが、実物は初めて。ビオラ・ダ・ガンバに似たギターみたいなチェロ、だろうか。小ぶりで足の間に挟んで弾く。
楽器は、それに接する人間との関わり方にとても正直だと私は思う(かきいだく、抱きしめる、抱きかかえる、一緒に揺れる、などなどその姿勢にすでに響きが聴こえる。コワンは非常に注意深く柔らかに楽器を包み込み、その体温がほどほどに伝わるように誠実にかかえていた)。
その響きは豊か(チェロのようにグラマラスでなく)で清潔。そして楷書の美。
先ほど「声楽にならえ」と述べたが、「明瞭な発音と正しい韻律で歌う」のが要点で、コワンの音楽はまさしくそれ。楷書とは、一つ一つの言葉の出発点から終点までを適切な勢いで運び、響かせ、つなぎ、センテンスにする、その間に一切の夾雑物がない、ということ。
そういうコワンと金子の間に交わされるインティメートな会話のうつくしさ。第2楽章のアダージョのしんと深く透明な湖を覗いているような、そのかすかな波と光の戯れのような、それはもう、二度と聴けない音楽であったと思う。
ブラボーとかなんとか、そういうのでなく、心からありがとう、とこうべを垂れたくなる音楽。シューベルトって、しみじみピュアだ。この演奏家二人も。

『三重奏曲』はチェロになった分、全体のボリュームが増し、この曲の持つドラマティックなエネルギーが大きく放出された。冒頭のユニゾンの決然には硬質な中にも水分を含んだ手触りがあり(ひび割れない)、モダンの響きとは違う。第2主題、つま先で軽やかに小走りするピアノとそれを追う弦のなんとチャーミングなこと。あるいは、弦の旋律にふりかかるピアノのきららかな身投げ音型の繰り返しにシューベルトの偏執的世界を垣間見せつつ、表情がめまぐるしく変化する終盤へ突入。
第2楽章、チェロのソロはむろんだが、各楽器のたっぷりした歌謡性、それぞれが浮き上がってくるたびに(この旋律の浮沈の文様が、川面に浮かぶ花筏みたいなのだ)切ない。弾力に富むスケルツォ楽章に続く長大な終楽章は、チェロの低音の冴え(聴き手の足元から響き上がってくる)がくっきりした音楽の輪郭を描き出す。そうしてその周りを埋めてゆくピアノの絶妙なこと。特にはしっこい連打音の粒の連なりなんか、手のひらですくいとってずっと転がしていたいくらい。それまでの楽章の回想を重ねながら、幾たびも同心円のように巡るシューベルトの音楽の森。ピアノはそこで木漏れ日のような光となって行く手へといざなうようだった。ほら、こっち。

コワンはアッシジに暮らす修道僧みたいな顔つきの人で、演奏中も時折口元をキュッと引き締めるくらいだし、アコカも生真面目そのもの。アイコンタクトもなし。さっぱりしたものだ。その二人の間で密やかに目配り、ほんのり彩りを添える金子に花束を。

私たちの生活・音楽、なんて騒がしく、声高で、力尽くになったんだろう。大音量と人工着色・甘味料でぶよぶよじゃないか。大事なことがいよいよ聴こえなくなった昨今、心身ともに清涼になったひとときであった。

(2018/5/15)

注記:当該公演は6/22 NHK BS プレミアム「クラシック倶楽部」で午前5時より放映とのこと