ベンジャミン・ブリテンの世界Ⅱ|藤原聡
東京・春・音楽祭-東京オペラの森2018-
ベンジャミン・ブリテンの世界Ⅱ~20世紀英国を生きた、才知溢れる作曲家の肖像
2018年3月19日 上野学園 石橋メモリアルホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 青柳聡/写真提供:東京・春・音楽祭実行委員会
<曲目・演奏>
ブリテン:
弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 op.36
(川田知子Vn、吉村知子Vn、須田祥子Va、辻本玲Vc)
カンティクル第3番 op.55『なお雨は降る』
(鈴木准Ten、福川伸陽Hr、加藤昌則Pf)
セレナード op.31
(鈴木准Ten、福川伸陽Hr、加藤昌則Cond、BRT弦楽アンサンブル)
(アンコール)
ブリテン(加藤昌則編):リンカーンシャー・ポーチャー
(企画構成:加藤昌則)
ベンジャミン・ブリテンという作曲家の作品が日本で馴染まれているか、と問われればごく一部の作品以外は否、と答えざるを得ない。その音楽は基本的に晦渋であり、親しみ易いメロディはあまりない。無調ではないものの必ずしも機能和声に則っているということでもなく時に旋法的であり一聴掴みどころがない曲も多い。イギリスの作曲家でありながらいわゆる典型的なイギリス的テイスト(例えばエルガーやヴォーン・ウィリアムズのような)を感じさせるという訳でもなく、その音楽は一個の孤立した地位を占めていて他に類例がない。重要な曲に声楽曲やオペラが多く、宗教的内容も相まってそれが日本人にはネックになる。もっと大きく俯瞰的に言えばこの作曲家の作品の多くは回収され易い「物語」にはまらない。そして現実的な話をすれば著作権がまだ生きているので演奏される機会も少ない(ブリテン死去は1976年、たかだか40年程前だ)。この辺りが一部の熱心なファン以外にはブリテンの音楽がそれほど浸透しない理由、という気がする。
この東京・春・音楽祭で昨年から始まって5ヵ年計画で進行させる《ベンジャミン・ブリテンの世界》は先述した状況に風穴を開けんとする試みと言えるのではないか。どちらかと言えばブリテン作品の中でも通好みと考えられているような曲をプログラミングし、演奏の合間には企画構成を担当する加藤昌則が親しみ易いトークで楽曲のキモを簡潔に紹介する。この日のプログラムはセレナードこそ幾らかは著名だが(しかし名前の浸透度とは裏腹にどれだけ聴かれているのか、と問われればどうだろう?)他2曲は渋い、『カンティクル第3番』は特に。チケット代もリーズナブルだし、元からのブリテンファンが聴きに行くのは当然として、必ずしもそうでないファン――「有名名曲はかなり聴いた、何か他に面白い曲は?」――にアピールできる好企画と思う。
前置きが長くなった。
コンサートは『弦楽四重奏曲第2番』から始まった。加藤の解説によればこの曲は「冒頭に出現する10度上行する2音が作品を支配する。注意深く聴くとそれが至るところにはめ込まれている」。これに基づいたモティーフが反行、逆行などに変容されて登場する箇所を分解して演奏してもらう、など聴き手に分り易いように行なうプレゼンに抜かりはない。演奏も水準が高く、非常に豊潤なアコースティックを誇る石橋メモリアルホールだけに少し響き過ぎてテクスチュアが不明瞭になる気配もあったがまずは文句なし。中でもパーセルに範を取った第3楽章のシャコンヌ(チャコニー)が出色の出来栄えと感じられた(須田のヴィオラの音が素晴らしい!)。この曲に限らずブリテンのシャコンヌはショスタコーヴィチと同様極めて深刻かつ重々しい音楽が多いが、その内省的な内容をくまなく表出していたと思う。それにしてもブリテンの音楽に特有のあの絶対的な「暗さ」「闇」は時にぞっとするのだが、作曲者の心象風景はいかなるものであったのかとその都度想像を巡らすはめになる。
2曲目はイーディス・シットウェルの詩による『カンティクル第3番』。ブリテンのカンティクルは全部で5曲あるが、それらは「聖書に関連した様々な詩人の詩に付曲した連作物」(プログラムより)だという。加藤の解説は極めて簡潔で、曰く「各節に登場するリフレイン“なお静かに雨は降る”は第二次世界大戦を意味している」。もっと言えば雨は止むことのない爆撃の比喩か、そして歌詞では「それは槌打つこだまへと変わる」、さらには十字架にかけられたキリストへの釘の音をも意味しているものと取れるが、ともかくブリテンの音楽は非常に強烈な印象を残す。先述したリフレインに同期する形で変奏曲がピアノとホルンで展開されて行くのだが、中でもホルンが凄く、それは爆撃、釘音、あるいは涙――それらの象徴としての雨――を表していよう。決して派手な曲ではないけれども1度聴いたなら忘れられない印象を聴き手に残す傑作。鈴木准の声質は美しいリリックテノールでちょっとボストリッジやマーク・パドモアに似ているとも言えるがあれほど細くも神経質でもなく豊かな拡がりを持つ。いかにもブリテンを歌うに相応しいその声で、時には劇的に、時には朗唱風に歌詞をていねいに解きほぐして歌い込んで行く様は感動的であり、そこに福川の超絶的に巧みなホルン・ソロが合わさって恐らくは滅多に聴けぬような名演奏が展開されていたと言いうる。このようなレアな曲をかくも高水準の演奏で聴くことができるのは大変ありがたいことと思う。
休憩後は『セレナード』。当夜の楽曲中まだしも有名な曲であろうが、これもまた聴くたびにブリテンにしか書き得ぬ傑作と思う。夕暮れから夜にかけての様々な情景を複数のイギリスの詩人の詩作への付曲でまとめた全8曲の作品だが、最初と最後の曲だけは自然倍音のみで構成されたホルン・ソロによる曲である(最終曲でホルン奏者はステージ裏に移動、そこから吹く)。楽曲が始まる前の解説では福川がナチュラルホルンを持参、加藤の弾く平均律によるピアノとの「ズレ」を実際に演奏して聴かせてくれたが、福川の話によれば、平均律を聴き慣れた耳には奇異に聴こえる自然倍音列も、西欧人にとっては古へのノスタルジーを喚起するものでもある、と言う。セレナードという曲は、こう言って良ければある種の「集合的無意識」を呼び起こすような世界観を披瀝していると思うが、なるほどそういうことなのかとこの話で合点が行く。演奏はここでも万全に思える。臨時編成とは思えぬ室内オケも緊密な合奏を聴かせ、鈴木の歌唱も極めて情感豊かに歌詞を歌い上げる(殊に7曲目の<ソネット>が忘れ難い)。終曲では照明が落とされた中でホルンの音のみがもはや「楽器」という認識すら消え去ってこちらの感覚にそっと入り込み彼我の境界が消滅し、全ては世界に溶解して行った。演奏者も偉大ならもちろんブリテンも偉大だ。なんという音楽。
濃厚なブリテン・ワールドに骨の髄まで浸った後は、イギリス民謡編曲者としての作曲者の側面を知らしめる『リンカーンシャー・ポーチャー』の陽気な演奏で幕。しかし、陽気と言いながらもそこはブリテンの編曲、また引き合いに出すけれどもショスタコーヴィチがいかにジャズ組曲で陽性の音楽を披露したところで、その同じ作曲者が後期の弦楽四重奏曲をこの後に書いたという事実を忘れさせるものではない。知ってしまった事実は消せない。再度記す、作曲者の心象風景はいかなるものであったのか。
尚このシリーズ、来年は「歌を伴う器楽アンサンブル」、2020年は「オーケストラ作品」、そして最終年の2021年は「オペラ作品」が予定されている。筆者は是非『冬の言葉』が聴きたいのだがこのテーマだと入らないだろうか? オペラではやはり『ピーター・グライムズ』になるのだろうか? さすがに『ビリー・バッド』や『ベニスに死す』ではあるまい、などと期待と想像は膨らむ。
(2018/4/15)