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東京都交響楽団 第850回 定期演奏会Bシリーズ|藤原聡

東京都交響楽団 第850回 定期演奏会Bシリーズ

2018年3月26日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:アレクサンドル・タロー

<曲目>
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番 へ長調 op.102
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14

 

インバルは元々2011年3月に都響で幻想交響曲を指揮する予定であったが、周知の通り東日本大震災の発生のために当該コンサートを含む計4回のコンサートは全て中止となった(尚、来日キャンセルとなるのではないかとも思われたその2ヶ月後の5月都響来演は実現、これには大変に嬉しい想いを抱いたのを記憶している)。それだけにインバルたっての希望による、と伝え聞く今回の幻想交響曲の再プログラミングにはいわば7年越しの指揮者の想いがこめられていよう。と同時に、録音や実演を通じて都響やフランクフルト放響(現hr響)、ベルリン交響楽団(現ベルリン・コンツェルトハウス管)などとの「インバルの幻想」に度々接する機会を持つことが出来ているわれわれにしてみれば、その演奏解釈の変遷にも注目したいところである。

「幻想」の前にはショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番がアレクサンドル・タローのピアノによって演奏された。聴く前にはタローとインバル、その芸風は相当に異なるゆえどういう演奏となるのか興味津々であったが、いざ蓋を開けてみればインバルがタロー及び曲想に大いに寄り添って極めてインティメートな演奏が実現していた(にしても14型のオケはやや大柄ではあったが)。タローのソロは音色が非常に美しく、タッチは繊細で多様な色彩の変化と陰影を伴って一瞬たりとも単調に流れることがない。ショスタコーヴィチにしては極めて抒情的でセンチメンタルとも言いうるこの曲ゆえ、タローのアプローチは曲想と上手くマッチして誤解を恐れずに書けば第2楽章などはショパンを聴いているような趣。しかしタローのショパンが甘すぎずに独特の「暗さ」を持っているように、このショスタコーヴィチもただ甘美ではない奥行きと知的なコントロールを感じさせるのだ。恐らくロシアのピアニストであればより直情的な心情の吐露といった印象が前面に出て来るのではないか。アンコールに再び第2楽章が演奏されたが、これが「本演奏」よりもさらに染み入る内容になっていた。

後半は件の幻想交響曲。指揮者のファンとしてはやはりどうしても過去の演奏との比較をしてしまうが、序奏での強弱記号への神経質なこだわりという点では過去の演奏と同傾向だが、テンポは比較的速めで休符もこころもち詰め気味。以前のインバルが分裂と沈滞の音楽をやっていたとするなら、今のインバルは先へ先へという推進の音楽にシフトしている。これは第3楽章でも顕著で、「ある若い音楽家」の心理描写的な側面の表出、というよりは極めてリアルで即物的な音響体としてのスコアの提示という面が強い。バンダのオーボエもさほど遠近感を感じさせない生々しい音響だし、楽章終末部のティンパニの遠雷も指定よりかなり強い。こういう演奏傾向ゆえ、その音楽はここでも極めて大柄かつ健康的な様相を呈する。最後の2楽章ではそれまで抑制気味であったダイナミズムを大きく開放、殊に第5楽章の重量感と強靭な音響が凄まじいが(鐘の音がやたらと大きく明晰に鳴らされるのもいかにもインバルだ)、その意味では筆者が聴き得た様々な幻想交響曲の中でもトップレヴェルのものだ。しかし後半で金管と弦でロンド主題と「怒りの日」が同時に提示される箇所などは通例両者が分離して聴こえる中、当夜の演奏では金管の音量が非常に大きいのでロンド主題がそれに埋もれ気味であまり明晰に響かない、という事態にも至り、これも意図的なものだろうがここにも近年のインバルの変容ぶりを見る。

今まで読んで頂いた方は何となく察知される気もするが、曲にもよるけれども概ね筆者は2000年頃までのインバルの演奏をより高く評価するものだ。スコアのディテールを緻密かつ神経質な手さばきで入念に掘り起こし、その特異性をあくまで冷静沈着な手つきで純然たる音響体として提示する。この即物性は昔から共通するインバルの特質であるが、近年はその「テクスト主義者」たるインバルの指向性がやや薄れ、マッスとしての音響体の迫力で骨太かつ豪快な音楽を聴かせるようになっている(先述した幻想の第3楽章なども、その即物性自体は同根ながら以前の粘着質な運びからはこの音楽の特殊性がより伝わって来ていた)。これは聴き手による好き好きの問題であるから優劣がどうこうではないものの、個人的には以前の鋭利さがより尊いものだったように思える。当夜の幻想、素晴らしい演奏であったのは間違いないが…。しかし言えることは、昔も今もインバルは彼にしか成しえない音楽をやっている。これは確かなことだ。

(2018/4/15)