トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団演奏会|藤原聡
2018年3月21日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:トゥガン・ソヒエフ
ヴァイオリン:諏訪内晶子
<曲目>
グリンカ:オペラ『ルスランとリュドミラ』序曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 op.19
(ソリストのアンコール)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005~ラルゴ
ドビュッシー:『海』-管弦楽のための3つの交響的素描
ストラヴィンスキー:バレエ『火の鳥』組曲(1919年版)
(オーケストラのアンコール)
ビゼー:オペラ『カルメン』~第3幕の前奏曲、第1幕への前奏曲
今やN響への定期的な客演でより広く知られる(聴かれる)ようになったトゥガン・ソヒエフだが、やはりその持ち前の卓越した色彩感、オケの響きに対する鋭敏な感性は音楽監督を務めるトゥールーズ・キャピトル国立管を指揮した際に最も直裁に発揮されるように思う。ソヒエフ&同オケ3年振り4度目の来日となる今回公演は、2008年より音楽監督を務めるこの指揮者とオケのコンビネーションが今年で10年を迎えさらに向上していることを期待させ、まさに聴き逃せないものとなっていることは必至だ(筆者が前回このコンビの実演を聴いたのは確か音楽監督就任後初の来日公演である2009年。その時のメインプログラムは『展覧会の絵』であったが、既にソヒエフのオケの掌握ぶり・類稀な能力は歴然であった)。3回持たれる東京のコンサートのうち、21日公演を聴く。尚、グリンカは全日程共通だがプロコフィエフ、ドビュッシー、ストラヴィンスキーはこの21日のみの演目である。
最初からして頬が緩む。グリンカのこの序曲を実に柔らかかつゆったりとした響きで包み込み、そこに攻撃的な荒々しさは皆無(あれは極端にせよムラヴィンスキーが演奏した際のこの曲とはまるで別物)。特にふくよかな弦楽器(分けてもチェロ)の音が絶品で、このような音を創り出せること自体がこの指揮者の類稀な感覚の豊かさを物語る。筆者はプラッソン時代のトゥールーズも実演で聴いているが、あの当時の同オケはやや荒っぽく、しかし今よりはローカル色が濃厚であったと記憶する。それに比べてソヒエフ就任後はオケが一個の有機体としてさらに緻密になり、ローカル色はベタベタな原色感と言うよりはもっと洗練されたものに変貌しているように思う。どちらが上、というものではないが(直接的迫力と言う点ではプラッソン時代の方が上だろう)、今さらではあるが指揮者のキャラクターでこうも音が変わるものか。
グリンカで緩み切った頬は次のプロコフィエフで幾らか引き締まる。諏訪内晶子の最近の進境ぶりは著しいが、曲によっては持ち前の技巧と美音でベタ塗り的に一本槍に曲を進めてしまいがちなこのヴァイオリニストが、ここでは極めて抑制された透徹たる表現を聴かせてくれたのが素晴らしい。オケのサポートもまた絶妙で、小編成で薄いテクスチュアゆえ印象が薄くなることもあるこの曲の伴奏部を明晰に隈取りして聴かせ、例えばスケルツォ部の表情の変転などはけだし絶品。諏訪内のアンコールはバッハ、落ち着いた表情が美しい。
休憩後はドビュッシーとストラヴィンスキー、これを期待するなと言う方が無理な話だがドビュッシーでは冒頭から音色に階層化されたグラデーションが「見える」。作曲者のオーケストレーションがいかに効果的に成されているのか、ということを思い知らされることとなるが、それが現実の効果としてこれだけの力を持ちうるとは(例えば頻出するアルペッジョやトレモロの多彩な効果)。もしかすると作曲者の想定した効果すら超えているのかも知れない、このソヒエフ&トゥールーズ・キャピトル国立管の演奏は。「海の夜明けから真昼まで」のコーダにおける光彩陸離たる輝きと「波の戯れ」における明滅する各楽器群の表情と音色のコントラストの生かし方の巧みさ。そして「風と海との対話」(コーダ前には初版にあったトランペットパートが追加)は軽やかな弦楽器群と濃厚な木管群の対比を思い切り生かして極めて立体的な音響を現出させており、このようなコントロールは天性の指揮者にのみ許された技だろう。そして練習番号54番直後に登場するヴァイオリンのフラジオレットに乗せて奏でられるあのフルートとオーボエの二重奏における抜群の歌わせ方。ここがこれほど卓越した表情と間(ま)でもって演奏された事例を少なくとも筆者は知らないが、一聴表面的に目立つ演奏効果を追求している訳ではないのに先述したようなディテールの冴えというか効果が当たり前に最大化されているため、その内容が恐ろしく濃い。
ストラヴィンスキーも同様。『火の鳥』は出来れば全曲盤で聴きたい口だが(4管編成だし)、この日の演奏の前にはそのような思いも吹き飛ぶ。<火の鳥とその踊り>でのまるでプリズムを通して見える色彩がそのまま現前したかのような「飛沫」(しぶき)、<カッチェイ王の魔の踊り>の邪悪な重さ(差し挟まれるfの和音のシャープさを抑えてむしろ重々しく心持ちテヌート気味に響かせていたのも新鮮で、そこでのソヒエフの指揮姿も正にそのような身振りになっていた)、<終曲>での華麗な開放感もまた圧倒的で、いくら演奏が良くても組曲版には何かしらのも物足りなさを感じていた筆者だが(全曲盤のあのスタティックな前半から徐々に事件が生起していく「時間の流れ」が心地良い)、繰り返すがこの日の演奏はそんなことも思わない程に最高の一語。アンコールはお約束の『カルメン』からの2曲、またか…とも全く思わないその愉しさ。ことに第3幕への前奏曲での自在なテンポ変化はけだし聴き物。
ところでソヒエフの指揮姿を見るとまるで力みがなく飄々としており、アクションも比較的抑制されている。指揮者としては「若手」である41歳という年齢を感じさせない老練さを感じるのだが、しかし出て来る音はあれだけ緻密かつ絶妙にコントロールされている。当夜はタクトを用いていたが、昨年11月のN響客演時では使っておらず、その際各パートにヒョイ、と軽やかかつ的確に出される指示を見てまるで魔術師か手品師のように見えたものだった。性格も円満で人格者であるようだし、何だか指揮者のあるべき理想像を体現した存在にすら思えて来るのだった(この段、ほとんど余談)。
(2018/4/15)