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日本フィルハーモニー交響楽団第698回東京定期演奏会|齋藤俊夫

日本フィルハーモニー交響楽団第698回東京定期演奏会

2018年3月2日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 山口敦/写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団

<演奏>
指揮:下野竜也
チェロ:ルイジ・ピオヴァノ(*)
日本フィルハーモニー交響楽団

<曲目>
フランツ・スッペ:喜歌劇『詩人と農夫』序曲
尹伊桑(ユン・イサン):チェロ協奏曲(*)
ジェイムズ・マクミラン:『イゾベル・ゴーディの告白』
アントン・ブルックナー(スクロヴァチェフスキ編曲、弦楽オーケストラ版):弦楽五重奏曲ヘ長調より『アダージョ』

 

毎回予想外の選曲で通を唸らせる下野竜也、今回はスッペ、ユン・イサン、マクミラン、ブルックナーという誰も想像しなかったであろうプログラムである。これらがどのように響き合うのかと興味津々で臨んだ。

まずはスッペ『詩人の農夫』序曲。オーケストラはいささかエッジが鈍い感もあったが、冒頭のチェロ(辻本玲)がロマンチシズムに満ちた旋律を朗々と弾くのに聴き入った。

次は筆者にとっての今回第一の目的であるユン・イサンのチェロ協奏曲である。チェロは作曲者自身を表し、オーケストラは悪と善がからみあう社会・世界を表しているとユンが述べている通り(CD「尹伊桑の芸術vol.5」カメラータ・トウキョウ、ブックレットより)、ユンの激動の、そして悲劇的な人生を直截的に語るような、チェロとオーケストラの強烈な苦悶の響きが延々と続く。
特に弱音部分でのチェロとオーケストラのアンサンブルや中間部分でのチェロのカデンツァは、もはや個人的な悲劇や悲しみではなく、世界への絶望とそれに抗う、しかし小さな存在である人間の姿を運命的に映し出しているようで、その強靭な精神、強靭な音楽に息を呑んで聴き入った。
だが、オーケストラの強音部分は各パートが複雑なテクスチュアを成しているのに加え、音量があまり大きくならないチェロの高音域と合奏せねばならず、さらに全体の形式も相当に複雑であるのに、あまりにも無造作に音量を大きくしており、ユンのエクリチュールが生かせられていなかった。オーケストラとチェロが叫ぶことを求められているのは事実だが、「どう叫ぶべきか」を考えてこその音楽であろう。
しかし、20世紀という時代と、ユン・イサンの人生を刻印したかのような本作品をかくも熱い生演奏で聴けたのは掛け値なしに嬉しかった。

後半はマクミランとブルックナーを、曲間の拍手無しで続けて聴いた。

そのマクミラン作品はプログラムノートによれば、1642年スコットランドで自分が魔女だとして出頭したイゾベル・ゴーディという実在の女性の記録に基づく音楽だそうだが、本作を評するのは筆者には少々難しい。
通時的かつ即物的に記述すると、「ルクス・エテルナ(永遠の光)」と呼ばれる静かな協和音が冒頭から続いた後、不協和音の強音、さらに轟音がぶつかってきて、魔女の集会を描写する激しい音楽になり、最後はまた「ルクス・エテルナ」に回帰し、C音のユニゾンに銅鑼とティンパニーも加わってのクレシェンドで終わる。
この作品を聴きつつ筆者は、「何を表現・描写しているのかはなんとなくわかるが、音楽としてこれで良いのか」と考え続けざるを得なかった。不協和音が現れても、調性は一貫して保たれたままであり、トゥッティでの強音あるいは轟音もまた同じく。そして調性による予定調和から音楽が脱することはない。打楽器やバルトーク・ピチカートのリズミカルな部分も、ただリズミカルなだけで音楽的な意味は聴き取れなかった。いや、これらにも意味はあるのだろう。だが、それが「浅い」のである。少なくとも、先のユン・イサンの音楽の苦闘と比べれば。
新ロマン主義、北欧新調性主義の系譜に入る作品と見たが、果たして「現代音楽」がこれで良いのだろうかと思わざるをえなかった。

最後のブルックナーはプログラムに掲載の下野インタビューによれば、「救いの音楽」としての選曲だそうである。確かに温かく、心休まる美しい音楽であったが、先のユン・イサンの徹底的な「救いのなさ」あるいは「救いの拒絶」の音楽の後で、マクミランの「(安易な)苦悩と救い」の音楽、そしてこのブルックナーの「救いの音楽」というのは、プログラムの物語的構造に無理、あるいは矛盾があるのではないかと思われた。私見では、ユンとブルックナーなら釣り合うのだが、そこにマクミランが割り込むことによって無理・矛盾が生じたと思えた。
しかし、意欲的な選曲と力のこもった演奏であったことは否定できない。下野竜也の音楽的冒険にこれからも注目したい。

 (2018/4/15)